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赤毛のあんぽ

 ギリシャとか中国とかのことばかりだったので日本のことも書いてみようか。

 安保法案が衆院通ったね。憲法的にヤバいけど通す、っていう与党のリスク感覚もどうかと思うが、徴兵制の議論がちょっと面白かったと思ったので触れてみる。

 普通の徴兵だと、ほぼ歩兵科に回される、つまり歩兵になる。
 軍隊とか戦争とか全く知らない人のためにちょっと解説すると、仕事で軍人やってるプロと、徴兵される素人と、別にいる。自衛隊のように、上からヒラまで全員志願してなる「全プロ」もあれば、軍曹から上がプロで、二等兵とか下っ端を徴兵するところもある。
 徴兵制とは、この下っ端を集めてきて、職業軍人のプロたちが指揮する、というもの。
 で、徴兵されるとまずほとんど歩兵になるのだ。なんでかというと、それしかできないからである。戦車や軍艦乗り、ましてやパイロットなどは、訓練に長い時間が必要なので、数年の徴兵期間に育てて使い物にして投入する、という手間がとれないのである。
 (そのうえ太平洋戦争当時と比較しても、兵器が発達しすぎているので、ますます歩兵以外が難しくなる)
 それで急に徴兵となると当然陸軍力の増強ということになるが、これはどういった戦略を想定することになるのか。
 敵地の占領である。占領は歩兵にしかできないから。(というかそれが歩兵の役目)
 なので、一般的な意味での徴兵制復活と考えると、仮想敵国への反攻作戦で制圧、占領まで考える、ということになる。
 でもこれは間違いなく憲法的にアウトなので、やるなら憲法から変えないと駄目ね。
 しかしそんなことやるか? 戦争やるとして中国を仮想敵国として、何をどう考えても膨大な解放軍陸軍を自力で撃破できるとは考えられないし、北京を奇跡的に占領したとしても、コストに見合う見返りがあるかな? 戦後処理も含めて、戦費と会わせて、どうするのかな。今の時代賠償金なんて取れないよ。人もすごく死ぬよ。
 ちなみにアメリカ参戦は、中国がアメリカ国債を買っている限り、ない。
 というわけで、この案は非常に現実性が薄いと思う。

 もうひとつは、経済的徴兵制、というもの。
 これは最近知ったのだが、左寄りの人の言い分だといわく、「日本は貧困大国になりつつある、大学にも行けない若者が増える、そういった人に他の仕事とは比べ物にならないような厚遇で自衛隊の入隊の手紙が来る、そうやって自発的に軍隊に押し込むのだ、アメリカがやってるように」という。
 ふーん、と思ったが、アメリカのようにべらぼうに格差のある社会と同列に語れるのかな? あっちは貧富の差も教養の差も恐ろしいほどあるから、下層ではクソみたいな生活よりは死の危険があっても豊かさを、っていうモチベーションが高いんじゃない? 日本は衰退してきてわりと元気ないけど、夜歩いていてもナイフで刺されて財布を奪われる危険が非常に低い程度にはすごく格差が小さいぞ。それで「徴兵制」が機能するほど、兵役につきたがる若者がでるかな。
 あと、貧困大国になったら戦争できないぞ。それとも戦時国債でも刷る? このうえ?
 

 それでね、私のね、正直な意見としてはね、徴兵制うんぬんの話なんてしなくていいと思うよ。無駄だから。
 どうせ戦争おこらないもん。だって、日本周辺の国、アメリカ含めて、だれも本気でやりたくないもん。
 マジでやったが最後、経済的にとんでもないことになるじゃん。お互いの国にお互いの会社いくつあるとおもってんの。
 「先進国どうしの国交」がある状況って、相互に核持ってる並に戦争しづらいぞ。
 
 
 
 
 



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戦争のリスクをいかにして考えるか

 最近、国防軍・九条改憲賛成論者の意見に次のようなものがあると聞く。

 曰く、九条原理主義者は、九条を変えたら戦争が起こると妄信しているのでけしからん。
 軍隊を持つと戦争が起こると思っている人がいるが、それは間違いである。
 戦争は、他国が攻め込んでくるから起こるのであり、それを防ぐために抑止力として国防軍、そしてそれを現実的に運用できる法制度が必要である。
 とのこと。

 これは、ある観点からすれば正しく、別の観点から見ればまちがっている。

 九条が戦争抑止になるのは、平和憲法を持つ国への戦争・侵略が国際的な非難を浴びることが容易に予想される、ということが根拠である。
 おそらく九条信者は、これを期待して唱えているのであろう。
 しかし領土問題をみて明らかなように、現実はそれほど単純ではない。いきなりとつぜん本土に軍隊が上陸し、軍事作戦を展開するなんてことはありえない。特に日本は飛び地が多いのである。
 尖閣を落としたら、次に沖縄……と、じわじわとこられたら、「九条!」の発現のしどころはあるだろうか? 

 そもそも憲法とは、国民が政府を縛る法である。
 民主主義国家における主権者である民が、政府が勝手なことをしないように制限をつけるのである。だから、強硬に迫ってくる侵略者に対するエクスキューズにはならない。

 九条は非常に美しいが、理解していなかったり、使いこなせなかったりした場合、時として非常に危うくなりうる。

 まず、平和主義そのものには、戦争に対抗する力がない、ということを知らなければならない。
 戦争は、「受けて立つ」という意思でしか止められない。

 ミュンヘン会談という、歴史の教訓がある。
 1938年、ヒトラーはズデーテンラントを「ここがドイツ領でないのは不当」と言い張り、言い分が通らなければ戦争もやむなし、と強硬な姿勢をとった。
 この会談には英首相チェンバレン、仏首相ダラディエも列席したが、英仏世論は一次大戦の悲惨な記憶がまだ生々しく、絶対に戦争はいけない、ズデーテンラントで戦争が回避できれば安いものだ、といって、結局ヒトラーの要求を丸呑みしてしまった。
 実はこのとき、ドイツには戦争をするだけの体力はまだなかった。英仏が連合を組んで叩き潰せば、二次大戦は起こらなかったかもしれなかったのである。だが、そうはならなかった。結局ドイツは力をつけてしまい、開戦後は英仏を瞬殺し、アメリカとソ連に挟み撃ちされてようやく負けた。

 
 さて。
 かといって、軍隊を持てば戦争リスクは減るかというと、単純に減少するわけではない。
 それは、抑止力の上昇とともに、開戦リスクの上昇も意味する。

 ケース1
 単純に対等に軍隊を持つ国同士となり、9条バリアーが弱まる。

 ケース2
 今後、世界情勢が変わるにつれ、要請により軍事上のさらなる機動性が、なし崩し的に認められるようになっていく。そして、普通に軍隊を持つ普通の国になる。

 より本質的なのは、ケース2である。
 先頭に書いた国防軍論者は、敵が攻め込むから戦争になるのだ、と論じるが、彼のような論じ手が意識的にか、あるいは無意識に無視しているのは、日本がふたたび攻め込む側になることになることである。

 彼らは、中国やロシアを、強欲で理不尽な侵略者のように言っている。
 だから、日本はそうじゃないから、軍を持っても同じ真似はしないという。

 しかし、明治以降の歴史を思い出してほしい。日本は望んで富国強兵、殖産興業などの国策に走ったか。清を植民地化し、韓国併合し、太平洋戦争に踏み切ったのか。すべて、そうしなければ喰われる、という逼迫した状況だったからではなかったか。
 防衛の目的で、外に撃って出ることもあり、それは往々にしてよそから見れば侵略者にもなりうる。

 現代、「侵略」の意図で戦争を行う国はない。どこも正当な理由を主張している。「歴史的には」だの、「復讐」だの、「先制攻撃」だの……。
 軍を持った日本が、そういった理由で武力を行使する理由、予見がまったくないと、どうして断言できようか? 私は、いつかは先制攻撃をもやりかねないと思うし、その時は、軽はずみで無思慮な連中が熱狂すると思う。

 
 結局私がどっちを支持してるんか分からん文になってるが、つまるところ九条+「戦力なき軍隊@吉田茂」の考え方はすごくいいと思っているのだね。だから、このモデルのままで予算だけ増やして、あとは政治レベルのブラフで決着してよ、という感じなんだけどな。
 「国防軍」なんて名前変えたってペンキ屋が儲かるだけだって。いいよ、自衛隊で。


野田総理・経団連への殺意表明

 私は、ある立場にたっての政治的な言説を言うのはあんまり好きではないのですが、野田総理と経団連はいくら何でも酷すぎるので、殺意と呪いを込めて記事を書くことにします。


 APECの日米首脳会談で、交渉対象に何を含めるかが日米の記者発表で食い違いが起きていることに関して行われた、15日の参院の質疑、山本一太議員に対する野田総理の答弁について。

 前提の出来事はこれ。ホワイトハウスの発表では、日本がTPP交渉参加に向けた協議に入る上ですべての物品およびサービスを貿易自由化の交渉対象に含める方針である、とある。
 しかし、野田総理はそんなことは一言も言っていない。
 このことへの対処として、野田総理はホワイトハウスに「そんな話はしていないと否定」を行い、米当局は「事実ではなかったと確認した」という。

 重要なのは、日本は「訂正の要求」「抗議」を行っていない。
 そして、おったまげだが、アメリカはこの情報を、撤回していない。

 本件に対する山本議員の質疑と、それに対する野田総理の答弁。

山本「なぜはっきりと訂正、抗議の意を主張しないのか」
野田「事実関係は米も認めたし、それをみなさんに共有していただければそれでいいと思います」
山本「アメリカは内外に正式に発表した報道資料のなかでそう書いたのだから、ほかの国はそう思ってしまう。事実と違うなら訂正を」
野田「もう事実ではないということは明らかになったと思います」
山本「明らかになってないですよ、アメリカの正式な資料の中で、総理は『全ての物品とサービスこれを貿易自由化交渉のテーブルに乗せると述べた』って書いてるんですよ。それはちゃんと、総理の方から訂正を求めてください、おかしいですよ」
野田「『述べてない』ということを相手も認めたということであります」
山本「外交交渉において、相手が正式に発表した資料が事実と違うのであって、抗議もしない、訂正もしないとあればですね、それは事実だってことになっちゃうじゃないですか」
野田「事実ではない、ということを我々は申し上げて、そのことを相手も認めた、ということであります」
山本「じゃあ事実ではない、ということを示してもらってください。アメリカ政府に」
野田「いや、だから。事実関係がない、ということを我々は強く申し上げたんです。で、そのことは先方も確認をした。確認をした、ということであります」


 こんな感じのやり取りが延々続く。
 山本議員の「訂正しないんなら、誤解したままの諸外国への対処はどうするのだ」という問いには、「機会があるたびにその都度説明する」という謎の方針を打ち出す。
 「アメリカの国務省がうっかりでこんな事するわけがない。確信的な勇み足ではないか」「総理の国内基盤がしっかりしてない、反対派がある、それをアメリカは知っているから足下見られてあなどられてるのだ」などの指摘にも、まるで筋違いな解答。
 「こんなセンスで外交やってるんだ」と皮肉られる始末。
 だが、このかたくなさ、ただの愚かではない。

 この人はあれだな、国内産業守る交渉なんてする気ないな。
 なし崩し的に、財もサービスも全部自由化させる気だな。恐ろしいな。
 そうだよね、交渉なんてする気なかったんなら、合点がいくよね。できるわけないんだから、するつもりだったらバカなんだが。
 もっとたちが悪い。邪悪だ。

 10年後には日本は植民地になってると思うな。こいつのせいでな。


 さて、TPPに賛成している経団連とか、財界の連中ですが。
 なんであいつらは賛成しているのか、みなさんご存知でしょうか。

理由1 もうグローバル化しちゃってるので、日本国内が苦しんだりデフレ悪化したりしても関係ないし興味もない。
理由2 株主がすでにけっこう外資。だからもう半分外国の会社。
理由3 TPPで得をする米国企業と提携している企業も多い。

 とまあ、こういう、日本が沈没しても逃げられるような連中が賛成しておるわけです。


 だいたい、TPPなんて入らなくても、日本は二国間の貿易協定を多く結んでいるので、孤児になったりしない。
 たとえばタイとの農業協定では、日本は農業技術の提供、人材の派遣を行っており、かわりにタイ政府が日本に対してコメ自由化を求めないように定めている。こういうケースバイケースの、TPPよりはるかにソフトな協定で世界とは繋がれている。
 まあ、今となっては何を言っても止められないが。(でも議会で止まるかも……という淡い期待)

 しかしまあ、黎明にせよ落日にせよ、歴史は歴史。粛々と今を生き、ゆくすえを目撃しつづけようと思う。


恋のはなし

学芸大の人たちとモツ鍋を食酢。
恋バナがはじまり、「そもそもあなたにとって『付き合う』とは何か」と質問された。

定義づけまで遡行するのは、ある種のあやうさを伴っている。
それは、議論の前提として共有される情報となりうるが、同時に、豊かなニュアンスが削れ落ちた、圧縮された議論をもたらす場合もあるという事だ。

私はどちらかというと、おりにつけ定義づけまで遡行する作業にはあまりいい印象はもってない。
なぜなら、そういう作業が好きで、失敗してる人をたくさん見てきたから。

美大にありがちなのは、「個性」や「アイデンティティ」を過大評価する風習で、最近のはやりでは「コンセプト」もこれに加わる。

そうなると、多くの人が「私はこういう人間で、このような問題意識を持ち、こういう形式でこういうことを表現した」と言い始める。

そこには、ほとんどのケースで嘘が混じり、取り繕われている。
人間、それほど自分の事がよく分かるようにできていないもの。
自分では気づけないからコンプレックスなのだし。
フロイトのモデルで言うと、氷山の一角を根拠に、自分がどういう人間で何を背負っているかなんて語れるわけがないのだ。

私はコンセプチュアリズムが嫌いだけど、それは個人的な趣味だからいいとして、美術作品において言語化できる部分が多くある場合には、まあ説明の必要がある。
しかし、作者の技量に問題がある場合、作品は説明の道具、あるいはきっかけにすぎない貧しいものとなる。
それは本末転倒だ。

結果、恣意的で未熟な前提から出発し、当然結実しないという悲惨な状況になる。私はそれをハタから見てて恐怖すら覚えたので、「私にとって○○は○○である」という話形に非常に身構えてしまうようになった。そういう風に話さなければならない場合、私は嘘をつくか、大事なものをたくさん無視することになるだろうから。

また、内田樹風に言えば、「言葉には遂行性がある」で、つまり「○○は○○である」と言明してしまうと、無意識にそれが実現するよう働いてしまい、呪いのように行動を縛る。
人間は、本来もっと自由に動ける。

だから、人間は基本的にはロジックに頼らずとも、経験から見いだした物を参照しつつ自由に動ける思考を備えている。ロジックを用いるのは、精度か説明が必要な場合だと思う。

だいたい恋愛というのは人間と人間、感情と感情のぶつかり合いなので、ロジカルな事より理不尽な事の方が圧倒的に多い。

私もべつに恋愛経験豊富なわけではないが、冒頭の「『付き合う』とは何か」という質問には、次のように答えた。(文章にしてるので、加筆するけど)

上のような考えがあるので、定義づけはできない。
なので経験から、大事だと思う事を述べる。
一言で言うと、「忍耐」(しかし今振り返ると、正確な言葉ではなかった)
知り合いや友達程度なら、心理的な距離感は自由に取れる。
しかし、付き合うと距離はきわめて近い状態で固定される。
そのとき、人間と人間だから、性格も趣味も育った環境も思想も違う二つの個体だから、軋轢はかならず生まれてくる。
人間は、己の間違いや理不尽さにはなかなか気づかないが、他人の間違いや理不尽さには強烈な嫌悪を抱く。

愛を確かめあう場面より、そういった問題が噴出した場面での判断が、圧倒的に重要となる。

愛するなら、その人の人間性を受け入れなければならない。
自分と考え方も思想も違い、時に理解し難い言動に出る事があってすら、決して怒らず、時にはこちらから折れる。
自分の感覚が100%正しいという保証もどこにもないのだし、異物として、多くの矛盾を孕んだまま、ほかの誰にも許さない距離まで近くにあることを許し、受け入れる。
自分より優先できる他者とすること、それが愛なのではないだろうか(力説)。

だから、一言で言うと、「忍耐」は「愛」に置き換えられる。でもそれではあんまりなので、「他者性」としておこうか。
共感できないところも含めて愛せるって、大切よ。というお話。


私が恋バナすると、こういう風になるんだよ。どうだ、つまらないだろう。

小学生に自生する組織化と目的化

木村君の主宰する小学生向けインプロワークショップ団体「salt-mane」(インプロの定型を模倣してるだけなので『サルマネ』をもじったという)に再び参加。

私は学部一年の頃に教職課程で児童教育法などを受けていたが、その座学のどれよりも学ぶ所が大い。

内容としては、最初にいくつかのインプロエクササイズをし、休憩を挟んだら子供たちが勝手に芝居をやりはじめ、それが一段落したら大学生(と俺)でインプロのショーを見せるのだが、この「子供が勝手に芝居を始める」のが非常に興味深い。


まずエクササイズの話から。
最初にウォームアップが必要なのは、演劇的感覚になじんでもらう必要があるからだ。
例えば、最も大きい例として、大人でも子供でも、異性の体に触れることに大きな抵抗を感じる(@鴻上尚史)。
その他、大声を出すのをためらう、大きな身振りをためらう、などなど。
特に小学生は、小学生なりの美学というか倫理をもっていて、それに強く支配されている。

しかし、劇的空間はそれらが解放されている前提で、表現としての体系が形づけられる。
なのでまず、日常の身振りから「劇的な身体」へ移らせる。

それはごく単純なエクササイズに求められ、例えば「ハイタッチ」というものでは、円陣を大きく組み、誰かが誰かの前まで走りより、アイコンタクトで合図し、同時にジャンプしてハイタッチする、ハイタッチされた人がまた誰かに走りより、の繰り返しを行う。
「走る」「アイコンタクト」「タッチ」の三つは、ウォームアップとして非常に重要な要素を持つ。すなわち、身体能力が開かれ、視線の暴露があり、他の個体と信頼を持ってフィジカルに触れ合うこと。
これが了解されている世界へと導くのであるが、その動力となるのは、集団心理学である。

この世界観に、ここにいる人間みなが了解しているという錯覚が、日常を取り払う。


私は、小学生の身体能力や精神的習熟程度、思考能力などを、自身が当時どうであったかを思い返す事によって想定可能であるが、どのような集団心理の背景に支配されていたかは、思い出すだけではわからない。

それは今児童を観察する事で、はじめて自覚できる。

児童は、条件が大人とはちがうだけで、基本的には同じ心理に動かされている。なので、一般の心理学によって語りうる部分が多い。
ただ一つ、明確に大人よりも顕著な部分がある。それは、組織化・目的化を希求しているところだ。
子供は、自身らの想像力を実現させたがっている。
それが、「勝手に芝居を始める」につながる。

どういう事か説明しよう。

これは教育に対する、ある種の反作用的な部分もあると思う。

近代において、学校や家庭など、子供を取り巻く環境は、その成熟のために、強い規制によって、長期的には自由を与えるという方法を取っている。
子供は想像力豊かで行動的だが、それに任せるだけでは進めない領域がある。
いやでも整列しなければいけない時があるし、嫌いな教科をやらなければいけない時もあるし、いたずらをしたら殴られることがある。
しかしそれに耐えて順応し、社会の成員として認められる「大人」となることで、子供にはなしえない思考・行動・技術・社会的自由を得る事ができるのだ。
コモンセンスは強い制約でありながら、大人としての自由の出発点になる。
その「大人」たちの作る社会こそ、議会が合意よって選ばれ、警察機構が機能し、インフラが整い、世論が明示され、法が敷かれることを可能にしている。

(近代的)社会とは、子供の否定に始まる。それは西欧に顕著で、子供とは「人間未満」の存在とされる。

しかしそれは大人の理論であり、子供にとっては「侵略行為」なのである。
そこにおいて大人は子供を壊滅的に侵すが、しかし子供は大人の理屈を理解しなければならず、またそうであるからこそ、そこにおいて認められたいと思う。
子供は、大人という「フィクション」をまさに吸収する課程でありながら、抑えきれない野性との葛藤の中に生きている。
だからこそ、「子供として、ありのままの想像力を十分に発揮してよいし、それは大人によって正当に評価される」という条件下において、絶大な自己実現を得る、と思われるのである。


そして、この子供が最も求めている事こそ、実現する場がなかなかないのである。
それは、しばしば大人には許容し難いものだからだ。
だが、このワークショップ団体はべつに「大人」なわけではない。そもそもこれは教育ではないし。
事実、子供らが主体的に動いている状況下では、私たちは主権を委ねていた。


子供が組織化・目的化を望むという話に戻す。
子供には子供の美学があると言ったが、その一つに、大人への帰属性が挙げられる。
言葉にすると当たり前だが、大人と子供は断絶しておらず、グラデーションのように繋がっている。
なので子供は、自身の社会的序列を、「子供ではあるが、ある程度大人へと教化されている」ことで確認する。
小学校の高学年は「低学年よりは大人」と確認し、低学年が「幼稚園よりは大人」と確認する。
そして「あくまでも子供である」ことを自覚しながら、「ある程度は大人と同じ水準でコミニュケイトできる」ことに自己を実現する。

以前触れていながら書かなかった事に、養老孟司が回顧する昔の子供の遊びがある。当時は大人たちは子供に構ってなどおらず、子供は近所の子供同士で遊んでいた。それは年齢に幅があり、そのなかで年少の子は年長の子の姿を見ながら学び、自身が年長になった時は年少の子らに大人として振る舞った。そのような序列の中で、子供は自発的に「大人」を見いだし、成長したという。

養老さんは、それが現代では破壊された、だから駄目だというが、どうだろう。
私は、今の小学生が普段どのような遊びをしているかは知らない。世間で言われているほどゲームに漬かっているのだろうか。
恐らく、そういう子もいるだろうし、弊害もあるところではあるかもしれない。
しかし、子供は経験に頼らずとも、「子供の中での序列化」は果たす。
私は見たのである。


休憩中に、子供は自然に、室内にある舞台に興味を示し、集まる。そして自然と組織化・役割分担が果たされる。

前回もそうだったが、今回にいたって、それがありありと見えた。
具体的に列挙すると、仕切り屋気質の男の子が自他ともにプロデューサーと認められ、しっかりした女の子が筋書きを指定し、年少の子に指示を出したり「この子を子役にしよう」と配役したり(まさに小さな大人!)、緞帳の操作や照明操作などの役割特化、それらが大人の指示無く、かつ個々の主体性のもとに行われる。

「個々の主体性のもとに」行われているように見えるのは、そこに集団心理があるからである。

無邪気さと渾然一体をなしながら、そこには「大人としての主張」がある。
子供だけでも、集団は組織化され、目的を果たすために動くという、「大人への反逆」とも言えるものがある。

だから、養老孟司はこの姿は見なくなったと嘆くが、機会が得られれば、子供はいつでも「反逆」しうるのである。

むしろ、その機会を奪ったことに罪があろう。
子供は本来、幼稚さを動機にしながらも「大人であること」を激しく希求する生き物なのだ。


もう一つ、具体例をあげる。
私ら講師陣も、子供に呼ばれて役者として出た。なるべく言われた通りの演技をし、最後にはオチをつける(これだけは子供には難しいし、彼らにカーテンコールをさせたいので)だけの役割だったが、子供によって、私らへの対応はやや異なる。

低学年の子は、ほとんど私らとは議論することはなく、この集団の中での「子供」と位置づけられている。
高学年の子は、私たちにも「このシーンで出て!」など指令をとばしたりして、仕切っている。私たちが「大人としての役割」を委ねているのに反応し、きちんと応える。
さらに、さっき挙げた仕切り屋の男の子は気がきいていた。私が舞台裏で「このシーンで、こう動けばいいのかな?」と確認を取ったら、彼は「そうです、それでよろしくお願いします」と敬語で言った。

ここにきて、「子供」は相対化される。
まさに、大人へのグラデーションを見た瞬間であった。

親がなくとも子は育つとはよく言ったものだ。


こうして遊びながら気付いた事に、私は彼らを、親や教師ほどには子供扱いしていないのだと思った。インプロショーをやったとき、私は児童の年齢に配慮せず、普段通りのことをやった。それでもきちんと彼らは笑うのである。しかも、表層的な部分のみならず、即興の技巧的なうまさにも反応してる。


小学校高学年とは、アウトプットだけ見るとまだ子供のような部分が多い。言動はしばしば幼く、また彼らは背が低く声変わりもしてない。しかし潜在的な判断力や精神活動においては大人に遜色ないのだと思った。彼らにはただ、知識や経験がないだけである。



尖閣ビデオ流出から始めて、平和憲法を考える

このエントリは、前半はわるふざけだけど、後半はわりとまじめに言っている。

まず尖閣の漁船衝突の映像流出について。空想の域を出ないけど、私にはこれはどうも当局が意図的に流出させたとしか思えない。個人が勝手に行ったという説では、義憤や愉快犯的な動機だと言われているが、それにしては外交的にあまりに出来過ぎている。

まずタイミング。映像の内容自体はそれほどショッキングではなく、衝突の事実があったかどうか程度のものでしかない。
船長逮捕から解放まで、ビデオの内容は機密とされていた。これは検察の証拠であるとしてのことだ。解放以降は、その理由を説明しきれない日本側にとって不利な内容なのだと思われていた。(つまり、明らかに有罪なのに圧力に負けたと思われた)

なぜ、逮捕当時などのもっと早い時期に公開しなかったかというと、このビデオは中国のメンツをそこねるものだからだ。
中国はメンツを大変重んじる文化であり、外交はそういう異文化の要素込みで行わなければならない。逆鱗にふれて態度を硬化されるよりは、「船長逮捕はちょっとした牽制」という風にして、この場を抑えたかったのが、解放時の日本政府の思惑だったのだろう。

基本的に領土問題は、戦争を避けたい場合であっても、絶対に譲ってはいけない政治問題である。なぜかというと、それはヒトラーという前例があるから。
(英仏の首脳は、『戦争に発展するくらいなら、一歩譲って収めようじゃないか』とズデーテンラントの割譲などを認めたが、その後ドイツに一気に力をつられてしまい、二次大戦で瞬殺された。以降、相手が強硬な姿勢を示しても屈してはいけないというのは定石的な対応となっている。らしい)

日本にとって尖閣諸島は、どちらの領土か白黒つけないまま、うやむやに事を運び続けられるのが理想である。喧嘩はしない方がお互いに得であるのは自明だから。しかし、船長開放後の中国の姿勢が意外だった。
日本には、経済的・政治的に安定する手よりも有用なものがあるとする政治・外交を想像できなかった。

この時点で衝突の映像は、強硬に出た中国に対する反撃になりえたが、それも控えられた。
動きを読む時期があったのかどうか、わからないが、映像をいかに公開するかが練られたように思う。

そしてこの数日、証拠映像がいかに決定的かということがマスコミで騒がれ、首相や議員などに限定的に、ひどくもったいぶって公開されていった。
その映像への感心が高まったのを見計らったかのように、流出される。

流出について「よりによってこんな時期に」とコメントする人もいるが、むしろ、最も騒がれる時期と見れば最適であろう。


また、もう一つの要素は、流出に至る形である。
誰だか特定できてない人間が、ネットを使って一気に広めてしまった。
現代でこそ起こりうる、予想できなかった「事故」である。
しかしここで重要なのは、国交の主体である日本政府は「何もしてない」という事だ。

日本政府がこの映像を公表したという形をとったら、中国政府は反撃することができる。それこそ「捏造」「事実の湾曲」など、何を言っても構わない。そういういちゃもんは、政治的な手法として「あり」だ。

しかし、日本政府が意図しない形で、漏れてしまった。
どう考えても日本に有利な証拠が、誰かに暴かれたという形になる。
この件に日本政府は、中国へ「いや、色々事情もあるものですので、おもんぱからっていたのですが……」と、言う事が出来る。
しかし中国は、反論を誰にすればいいのだろう。
こうして、「神様は見てた」攻撃がなされたのだった。

つまりこの映像は、日本政府にとって最高の、また中国政府にとって最悪の形で公開されたのである。
この顛末にいたる過程はすべて偶然だろうか。

そもそもこのスキャンダル、日本にとってマイナスなこと何もないだろう。

管さんや検察にとっては情報管理能力を問われることになったけど、尖閣問題を「痛み分け」で落とすための、肉を切らせて骨を断つ戦法だったのではないかな。恐らく外務省の官僚あたりが思いついて、色々な人を説得したのだろうか。

たとえこの先犯人が見つかっても、ケネディを狙撃したオズワルドみたいなものだと思う。


と、ここまで空想なのだが。
今回の問題のキモは「日本は戦争ができない」という事にあると思う。

領土問題というのは、それを主張する両国のどちらかが完全に正しいというのはありえない。そもそも領土は流動的だからだ。だから問題となる領土は、どちらかの物になるとしたら、それは口で勝ったか、殴り合いで勝ったかした国の方のだ。

ところで日本には、戦争を禁じる憲法が存在している。

船長逮捕で日中の緊張が一気に高まったとき、「あわや戦争か」と思った日本人はほとんどいなかったと思うけど、日本が「公式な軍」を持っていたら、その可能性を考えさせられただろうとも思う。
どちらかが望めば、いいがかりをつけて開戦できる。

しかし日本は公式の軍隊を持たず、自衛以外の交戦を禁じているので、日本への攻撃は国際的な意見が同意しないという防御がある。
もう一つは、アメリカの後ろ盾。
この二つが、日本を戦争の危機から遠ざけている。

日本は自衛隊という、ないはずの軍隊を持っているし、ありえないはずの「軍事同盟」をアメリカと結んでいる。
そしてこれは、非常に奇妙な立場を作らせている。

侵攻が不可能で、常にアメリカの顔色をうかがわなくてはならない日本には、「自分で決められる事があまりない」のである。というか、そういうふうに見える。
殴ってやりたくても、勝手に戦争を始めたり、受けたりしてはいけない。
つまりアメリカの軍事力さえ前提にすれば、憲法は現状に矛盾しながらも効力を発揮しており、また矛盾があるからこそ強く意識される。
(あなたは憲法の9条以外に何が記されているか憶えているだろうか?)

日本の軍事ポジションは、よく分からない。
憲法やアメリカが封じ込めているが、なまじあいまいな部分がある分(しかも最近は右傾化しているという)、極端に刺激するのもためらわれる。
(そもそも自衛隊は、米軍と組んでの『侵攻作戦』訓練もしてはいる)
日本が「アメリカの飼い犬」であることは、日米、ならびにアジア諸国の関係を安定づけている。だから、どの国にとっても、日本の軍事的自立というのは危機であるわけだ。
しかしそれは、日本にとっても決して好ましい状況ではないだろう。

だから、これらの国は、奇妙な共犯関係のなかで、このあやうい均衡をとっている。
これのどこが崩れても、時が動く。
その中で、日本の軍の「よくわからなさ」は、自衛牽制として有効に機能しているのである。

つまり私は、憲法九条や自衛隊の問題については、矛盾があってもべつにいいと思っている。
むしろその矛盾が、均衡を担保するのではないか。
だから九条は、なんだかんだ言って変えなくていいし、防衛庁が防衛省になってもかまわない。そのどちらとも、日本が戦争に向かわない動きとなっている。

「よろしい、ならば戦争だ」と、自分も相手も言えない外交というのは、人類史上希有な物であろう。だからこそ、政治家はせめて口がうまくあってほしいと思うものだが。


引っ越しの季節ッ……!

そろそろ引っ越しのシーズン!

引っ越しをする前に言っておくッ!
おれは今引っ越しのスタンドをほんのちょっぴりだが体験した
い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
「おれは本を段ボールにつめていたと思ったらいつの間にか記憶スケッチで初音ミクを描いていた」
な… 何をしてるのかわからねーと思うがおれも何をしてるのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…休憩とか気分転換とかそんなチャチなものじゃあ断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗をあじわったぜ……


というわけで、お題初音ミクに当たったので描いてみた。
記憶スケッチではぼかしもズームも筆の種類もないので、ひたすら手動で色を選び、1ピクセル勝負するしかない。段々ドット絵みたいになってくる。

マウスでどこまで描けるものか、試したくなり、スタンドに10時間吹っ飛ばされる。


結果を見る前に言っておくッ!
おれはさっき完成したミクをほんのちょっぴりだが保存した
い…いや…保存したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
「メッセージ 描画時間が長すぎたため通信がリセットされました。申し訳ありませんが最初からやりなおしてください」
な… 何を言ってるのかわからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…





データをなんとか別の方法で保存しようとあれこれ試したが、ならず。ブラウザ閉じたらお別れ。

さっき公式絵見たら、襟のサイズとか頭の飾りとか髪の長さとかいろいろ間違ってた。記憶で描くのってむずかしいね。
人生もむずかしいね。でも最近はミクシーやってて楽しいので、まあいいんだろう。




↓カメラで救出された
miku11.jpg

(追記)歌詞まで間違ってる。

(追記)ほっ保存されてたああああああああああ!!!!! 何が起こったのかついに分からなかった

調査対象が少なすぎると神秘扱いになる

昨日の舞台美術の打ち合わせで193らと色々話し合い、根本的な問題についていくつか得るところがあった。

そしてインスピレーションというものについてすこし考え直してみる。インスピレーションについて考えるときいつも思い出すのは、中原中也とジャック・デリダの二人だ。彼らは非常に良く似たことを言っていた。

それはおおむねこういうことである。書くべきものは作家の中にあるのではなく、外部にあり、それはあたかも空気中をふわふわ漂っている。作家はそれを掴み、媒体し、作品に定着させる、それだけの存在だ、という。

中原中也は、空中をふわふわ漂ってるものを「言葉にならない言葉」と言った。それを手でつかみとり、言葉にしてやるのが自分の仕事だと。

インスピレーションは、しばしば外的なものとして捉えられることが多い。だが、それがどのように訪れるかはまた種類を分けられる。100年前の西欧の詩人が「ミューズ」とそれを呼んでいた時は、それはおおむね天から降ってくるようなものであり、ある種の恩恵のようなものだった。ラッキーだったのである。
だが、中也にとってそれは身近なものだった。それは身の回りを漂っている。そして、つかむことができれば、言葉にしてやることができた。

これはヨーロッパの文学が、作者の内的なものに特権を与えていたことが、インスピレーションを遠くのものに感じさせたのかもしれない。書かなければならないことが「あたりにふわふわ漂っている」という感覚は、当時は理解しがたいものだったろう。

デリダが中也と同じことを言った理由は、デリダ自身にその感覚があったほか、インスピレーションの形に上記のような天啓ではないものもあると示したかったのではないかと思う。

が、藤枝晃雄さんによると、この感覚は「当然のことであり、偉そうに言うものではない」らしい。デリダの話は、この人の講義で聞いた。
この批判から考えられるのは、そのような感覚に基づいた作品、あるいは作品を作る作家が既に多く存在し、タイプとして成り立っていること。

そのような「寄せ方」あるいは「呼び方」は、特別な感覚ではなく、ある種類の感覚である。

中也の「言葉にならない言葉」を感じ、つかみとるという妙法を可能にしたものは、最も漠然とした言葉で言えば「才能」と言える。それをすこし細かく見るのならば、「ある種の感覚を持ち、それを作品にする技量と、適性があった」ということだ。

一般に、すぐれた才能とは独自の知覚を持つと思われている。が、恐らく感覚の種類は、思っているほど多くはない。作品は感覚と知識と技術がどのような加減で統合されるかによってはじめて独自なものとなる。


だから、いかなる媒体にせよ、感覚を過信しすぎてはならない。それらは意外なほど不自由であったりする。


町への愛と、若者の神

「天体戦士サンレッド」が、なぜ気になっているか分かった。川崎市への愛であふれているからだ。(この話は川崎が舞台となっている)

川崎は私の住んでいた横浜のすぐ北にあり、昔はちょいちょい遊びにいった。かなり個性の強い町という印象を個人的に持っている。サンレッドの登場人物はボロアパートに住む若者、同棲してるヒモ、ホスト、生活臭くて気づかいあふれるおばさん(のような人)、不良の高校生(みたいな人)などなど、全体的に見れば「ああ、言われてみれば川崎だなあ」と共感できるようなメンツだ。話の舞台も溝の口とか二子玉川とか、神奈川の人以外にはあまり知られていないだろうマイナーな場所である。
こういう設定は、愛がないとできない。だから人物が無駄に細かく魅力的なのか。

私も小金井のことはよく話にしたりする(『清潔』では小金井市が舞台だったり)。が、この地は治安がとてもよく、住民もアッパーミドルクラスが多いのでドラマティックな町ではない。旧い家もわりかし立派な日本家屋が多いので、昔からそういう町だったのかもしれない。だから私が書く小金井の出来事は全部フィクションといえる。
だが今日、自転車で走っている途中で、Tシャツにパンティ姿でお庭の草むしりをしてる中年女性を発見した。その瞬間は「ここは魔境か?」と思った。住宅地にも木々が多く鬱蒼としているので、そういう妖精がいてもいいような気はするのだった。

その自転車で走っている間、「自分の世代はどのような前提で表現に関わっているのか」という事について考えていた。
先日実家に戻っている間、父親と「作家の持つ原風景」といった話をした。例えば五木寛之は戦後の焼け跡から始まっているし、別役実は満州の荒野からはじまっている(何もない荒野に電柱・電線だけが通っていて、その先には都市があるはず。人間への手がかりがそれしかないという風景)。全共闘を見ながら育った世代もあったろう。
一方昭和六十年生まれの私には、幼少期に世代的なクライシスはなかったのだった。平成不況は日本経済には大きなダメージだったが、子供の精神に直接影響するものではなかった。

原風景に限らず、今の若年層は世代的な体験というものに乏しい。就職難がせいぜいだろう。だから己のいる世界を解釈する材料としての体験は、共通のものでなく個体のものへと移ったように思える。

かつて20世紀文学は、「自己という怪物との戦い」だった(と言う人がいる)。ジェイムズ・ジョイスやプルーストがそうだった。が、後にスポットの当てどころを人間ではなく社会に変えた文学が現れる。それが「共産圏の理不尽」を書いたミラン・クンデラ、「100年の歴史の中で生まれ、死んでいく人々の系譜」を書いたガルシア=マルケスなどだった。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
(1998/11)
ミラン クンデラ

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百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
(2006/12)
ガブリエル ガルシア=マルケス

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これらの書では、人間は「小さいもの」として書かれている。内的な葛藤というのは部分に過ぎず、世界は大きく解釈される。
(ただミラン・クンデラは、自作を『ラブストーリーだ』と主張している。それもまた確かな事だが)

が、現代の日本においては、物語は小さくなった。そしてそれは、文学的な逆行や停滞ではなく、今までとは別ものの「自己」が表されるようになる。
人間を描いた文学においては、世界は前提として機能していた。だが、現代においてはそれは「あるのは知っているがよく分からないもの、あるいは必要とあらばその一部や精神的影響を無視できるもの」となったのである。
個人の体験においてのみ解釈される世界とは、モンスターではなく、単にストレンジャーなものなのかもしれない。

それを象徴するのが、一昔流行った「セカイ系」だろう。
詳しくは知らないが、恐らく「新世紀エヴァンゲリオン」あたりから、個人の感情や思考が世界観において絶対的な基準となる構図が確立した。そこでは世界の出来事は重要でなく、主人公シンジ君の内面こそが世界である。実際エヴァは全編を通して、正確には何が起こってるのかさっぱり分からないアニメだ。矛盾のない公式の解釈というのが存在するらしいが、それは絶対にこじつけだと思う。あるいは、作品に全く反映されてないから意味がない。

「ストレンジャーな世界との遭遇」という図式自体は昔からあるが、ここにおいてはストレンジャーが、ストレンジャーである点についてはさほど問題視していないという大逆転がある。

これが、若者にとっての自然な感覚と言っても、言い過ぎではないのではないか。
セカイ系のブームは漫画・アニメの一部で起こった事だが、このような作品群が生まれえた事も考えると、次元は違っても一般的に存在する感覚であるといえよう。

内田樹がこんな体験談を言っていた。「教え子の女子学生が、外来語が多様されているファッション雑誌を愛読している。が、そこにある外来語の意味を聞くと、その学生はわからないと答えた。その学生は、『理解できない多くの語がある』ことを無意識に無視し、全体を理解したつもりになっていた」

ストレンジャーについて、もし自分が理解を望まないなら、無視あるいは自分の文脈で補完することで、問題なく世界と接触する事ができるのである。

こうして若い人は、世界を見る。そして世界を見るためには、世界はストレンジャー以外のものであってはならず、「世界を常にストレンジャーなものとして管理する絶対的な自己」という神を捨てる事ができない。


以前、このようなことを簡潔に言い表した文章を読んだ事がある。いわく、これは「自然な自明性の喪失」どころではなくて、「『自明性の喪失』が自然」と言える。

この件についての最大の問題は、「問題なく世界と接触する事ができる」点である。多くの人は、この点を「よくない」とする。たしかにこういう姿勢は、視点の精度を著しく落とす。が、当人たちは「それでよい」のである。この感覚で生きていく事はできるからだ。この状態のままで、個体は社会的に機能することもできるし、精神的なリスクも避けられるのではないか。むしろ「若い世代の私の世界に対する位置、体験などは特に根拠に乏しい」ことを自覚してしまうというクライシスを起こさないためのセーフティとして現れたのかもしれない。

(……あるいはもともとは、社会変動の少なかった原始社会では、世界に対して鈍感であることがデフォルトで、批判精神を持つのは偏差的なもの、病気だったのかもしれない。それを言ったら、文明は生物の病気、生物は物質の病気……)

ということを考えてました。
だから私は根拠のない作品を書くべきなのではないか。世代として。でもそれが根拠になるのか。やだなあ。

少なくとも「作家はある切実さをもって表現をする」という神話をなくすしかない、というのはある。これは人間の普遍的で自然な感情に反してるが、もうそういう姑息なコンセプトしかのこってないのだ。因果な事だ。

思い当たる事もある

今、非差別部落民についてちょっと調べているところ。

ところで(いきなりところでというのもなんだが)、民俗学者である柳田國男の本に「山人」という、山間を移動しながら生業に携わる生活形態をとる人たちが紹介されている。これは里や市街とは独立した共同体を持った人たちだったそうな。今は柳田の用語「山人」ではなく「サンカ」と呼ばれるらしいが。

この本を読んだ時は「ああ、日本には昔はそういう人たちもいたのか」と思った程度だったが、さっき調べてみたら「サンカ」なる人たちは戦後までも存在していたそうだ。幕末から近代にかけて確立したという。(説によるが有力らしい)
ええ、そんなに最近なの? という。

みなさんは知ってましたか、サンカ。

というわけで、我々は広義にはゆとり世代なわけだし、士農工商以外の身分について何も知らないわけですよ。というわけで部落民の発生から、現代に残る問題までざっと調べてみた。
そこでひとつ発見。

以下に書く事は、やや差別偏見を助長する要素を含んでいるかもしれない。

念のため書いておくが、私はそういった差別意識は持っていない。立派な人だっていっぱいいるし、個人レベルで対面するとき、そこにいるのは個人であって、出自は関係ないであろう。っていうかそもそも差別は嫌いだ。
が、私が改めて言う事ではないけれど、部落問題は複雑であり、感情的な差別意識だけで構成されているわけではない。これには利権や、金や、ヤクザが絡んでいる。
今日はその話をするわけではないので、とりあえず「部落差別なんて非現代的だ、信じられない」という素朴な意見が通用しないということだけ念頭に置いてほしい。興味があったら自分で勉強してみてくれ。

で、発見というのは、私の母親の「ホームレス観」がいかに培われたか。
私が幼稚園の頃から住んでいた平塚の家の近くに公園があった。そこは頻繁に遊び場にしていたのだが、一人のホームレス(当時はルンペンと呼んでいた)が一時期居座っていた。見るからに異形の者で恐かった。あの人は一体なんなんだ、と私は母に聞いた。母はあれはルンペンだと言い、子供が近づくと危険、彼らは自分の血を売った金で酒を飲んでる、などという事を話してくれた。

私はそれを聞いて「へー」と思い、あの異形の者がどんな場所にどんな風に血を売りに行き、どんな酒を飲むのかを想像したりしていた。が、しばらくして想像はしづらくなった。そのルンペンを常に観察していたわけではないので分からないが、どうも血を売ったりはしてなさそうだ、と感じてきたのだった。彼は公園にいる時は、いつもものぐさそうにベンチで寝そべったり、ぼーっと立っていたりした。生活臭さがまったくなかったので、そういうことを想像しづらかったのだ。とにかく思ってたのとちょっと違う、となって「母が教えたルンペンのイメージ」は「母にとってのルンペンのイメージ」なのではないか、とうっすら考え直したりした。

しかし、そのルンペンもやがて消え、うちの家族は平塚から引っ越し、とりたてて興味を持ち続けなかったので記憶は薄れた。十年以上経つと、私はホームレスそのものには悪印象を抱かないようになっていた。話しかけてくるのは気のいい人で、煙草をくれたこともある。そんなわけで、「子供が近づくと危ない、血を売った金で酒を飲む」イメージは記憶の隅に追いやられていた。

しかし、現代に残る部落差別を追っていくと、そのうちの一つが大阪のある地区に行き着いた。

そこはかつてから「部落」であって、今なお大変な蔑視と、悪い治安のもとにある。
道にはホームレスがゴロゴロと転がり、冬は普通に凍死しているような所だという。
(関西は関東とやや事情が異なり、いくつかの部落が明確に残っている)

そして彼らは、血液を売っていた。薬害エイズ事件が起こってそれが不可能になるまでは。

「なるほどな」と思った。母親は大阪人だから。
「ここには行ってはいけない」地域だったんだろうな。二十年近くたってやっと分かった。

ちなみに母親について弁護しておくと、彼女も差別は嫌いな人だ。ただお上品な人だから、ホームレスとかは恐いのだろう。

プロフィール

金城孝祐

Author:金城孝祐
劇団無敵の作・演出家。油絵も描いてる。

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