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紙様

トイレットペーパー書。

大納言


中納言


文徴明


O君と雑談。カントやニーチェ、古代ローマ文明、阿部和重、イデオロギーや物語の消滅などのもろもろの道筋を経て、「町田康の小説の主人公は、スターリンやポル=ポトと似た間違いをしている」という結論に至った。雑談の内容はその場の雰囲気が非常に影響し、普遍性のない話になるものだが、どこにでも飛ぶのでそれはそれで面白いなと。
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手遅れ光線(人類を手遅れにする)

いそがしい。
ブログとポエムが書けない日々はいそがしい。
寝る時間もないよりましだけど。

休める日曜

ウィトゲンシュタイン二次、三次文献を読み散らかしているうちに、これじゃカントが読めない、と気づいた。「永遠に読めない気がする」と思うと永遠に読めなくなりそうだから、春に運河でカンヅメしたように、そのうち過酷な状況をまた作ってみよう。

今、インヴェンション13番をやっていて、なんだかベートーベンの「月光 第一楽章」と酷似したモチーフを見つけた。
夏の公演に向けて二曲作曲しなければならないが、最近バッハばかり気になっている。でもバッハは現代劇のBGMには向かないしなあ、とちょっと困っていたのだが、漠然と古典派への繋がりが見え隠れしてきた。
「月光」経由で「幻想即興曲」、だからショパンはバッハを継承したと自分で言ってるのか、ということも考えてみる。
(ショパンは「幻想即興曲」が、「月光」にとても似ていることを恥じていた。自分が死んだら楽譜を燃やすように、と友人に頼んでいたほどである)
ベートーベンがバッハに触れていたかどうかしらないが(バッハは没後しばらくの間、忘れ去られていた)、流れが見える気がする。
うまく寄せられれば、バッハも生きるかもしれない。

漠然と繋がりが見えることが多い。色々なことが。
明晰にしていきたい。


ハイドンのありあ。あり得ない声。

ウィトゲンシュタインその1

昨晩、ウィトゲンシュタインのことをちらっと書いて、思うことがいろいろあった。まず、あの書き方はあまりに乱暴すぎてよく分からないだろうこと。次に、「論理哲学論考」について今一度やりなおしたくなったこと。私はノートを取るよりもブログに書いた方が定着するので、勉強兼不完全な記述の補足という感じで、まとまった量を書こうかな、と思った。

そして、高校生とかに対して、ウィトゲンシュタインを通すことで示せる「おもしろ」はいっぱいあるんじゃないか、という思いも一つ。
だから、極力わかりやすく、おもしろく、かつ私の能力の範囲で突っ込んだ話題をしていこうと思う。

個人的には、高校生にウィトゲンシュタインというのは「あり」だと感じる。むしろかなりいいんじゃないかなと。

 理由1:イデオロギーなどの危険要素が少ない。
彼は分析哲学・論理学の人である。論理学は、(基本的には)各人の思想や好みにかかわらず誰にでも了解できるものだ。もちろん深く掘り下げていくと全くバイアスがないわけではないが、「ツァラトゥストラかく語りき」とかの劇薬みたいな本よりは断然薦めやすい。
彼は我々も使いうる普遍的な考えで論を組み立てている。もちろん彼は学者で、才能や素養がちがうから普通に読むとめちゃめちゃ難しい。ただ解説書なども出ているし、併読して丁寧に読めばそれなりに分かると思う。非常に鋭利で深い論考は、職人芸のパフォーマンスを見るのに似た楽しさもある気がする。

 理由2:論理学なのに熱い。
という時点でかなり面白いですね。私は。

 理由3:美とは何か、芸術とは何か、生や死とは何か、「私」とは何か、世界の成り立ちとは、という壮大なお題に到達する。
多分、命題の形式や対象の性質などという瑣末的な問題よりは、どちらかというとこういう大きな問題に関心があると思う。しかしこの手の話題は、安易な考え方をしてはよくないし、もったいない。
十代後半になると、ぼちぼち自分の言葉で考えることができるようにならなければいけないが、その際手持ちの知識や思考方法が不足して、明らかに間違ったり、浅い考察で終わったりするのはちょっと悲しい。我々は「論理哲学論考」を完全に吸収するのは難しいが、それを通じて姿勢というか、根本的なスピリッツを見て取れるかと思う。ウィトゲンシュタインは論理学・言語学のツールを使い、命題やら対象やら意味やらの話から始めて、長い道のりをたどってから、論理的な方法で壮大なお題を語りだす。言い換えると、論理学、言語学を考えることは、美、芸術、生、死、「私」、世界などについて考えることに繋がりうる。これは多くあるやり方の一つではあるが、そういうやり方があるのだという可能性を知るのはいい事だ。
その例としてウィトゲンシュタインは、魅力的だし、あるいみ明快なので、適していると思う。

昨日のエントリに書いた部分「哲学的な質問は、最初から存在しない」は、翻訳にはこういう風に書いてある。


6・5
人が語りだすことのできぬ回答に対しては、人は問いをも語りだすことはできない。
謎は存在しない。
ともあれ問いが発せられる以上、その問いは、答えることのできるものである。
6・51
懐疑主義は、反駁不可能なものではない。まぎれもなく非意義的なのである。問うこともできないものを疑おうとするのであるから。
なんとなれば、問いが成立するときだけ疑いも成立し、答えが成立するときだけ問いも成立し、そして、何かが語られうるときだけ答えも成立するのであるから。
6・52
いま、仮に、可能なかぎりすべての科学的問いが回答されたとせよ。そのときにも私たちはやはり、生の問題は依然として手もつけられないままであるかのように感ずる。もとよりそのときには、もはやどのような問いも残ってはいないであろう。そして、もはや問いはないということが、じつはその回答である。
6・521
生の問題の解決を、人は、その問題の消失という形で気づく。


「論理哲学論考」(山元一郎 訳)より



これはいったいどういう意味なのか、なぜそんなことになるのか。この文面だけ読むと、何だか冷淡な印象を受けるが、とんでもない過程を経てこう結論されている。
ということを説明するのを、とりあえずゴールとして目指していきたい。




呼応

文化学院に通っているU山さんという人から、インタビューの依頼が来たので、私なんかでいいのか、と思いつつ行ってきた。

高等過程の授業で、アンダーグラウンド、特に暗黒舞踏をテーマにドキュメンタリー映画を撮るという。
行ってから気づいたが、私はもう高校一年生とは八歳も年が離れている。
ちょっとショックだった。私は高校生の頃から知的にはあまり成長してない気がして、昔書いた文章も今読んでもわりと「ふーん」という気持ちで読める。だから高校生いう時代は気持ち的には地続きではあった。
しかし八歳の年の差を実際目の当たりにすると、ああ、年を取ってるし、考え方もごっちゃらけてきたんだなあ、と分からされる。

喋るのはあまり得意ではないので、かなりたどたどしく、支離滅裂な話しになってしまった。
が、何か「自分が伝えられること」というのはどっかで意識していたようにも思う。

私が高校生の頃に「そういう話しを聞きたかったなあ」と思うようなことを喋ろうとしていた。
特にここの生徒は芸術系が多かったので、
芸術をやる上での考え方はすごく沢山あるし、他の学問とも結びついてるし、それらをきちんと考えられるととても楽しい、というようなことを伝えたかった。リベラルアーツ的な。
私が中学・高校生の時は、勉強がつまらないので、しなかった。何が魅力なのかよく分からなかったから。
(高校が大学入試に力を入れすぎてたせいかもしれないが)
しかし色々本を読んでいるうち、学問というのが、進路や職業に関連すること以外でも非常に強い意味を持つことに気がつく。

なぜか画像が開けなくなってるが、例えば山形浩生の「新教養主義宣言」とか。
で、なぜ山形浩生を読んだかというと、まず小室直樹の「痛快! 憲法学」を読んだ。これは立ち読みして面白そうだったから。かなり右だが、持っていき方がすごくうまいし興味深い本。
それからネットで小室直樹について調べていると、「ホットワイアード」という社会科学系サイトで小室批判をしている記事が見つかった。ホットワイアードは今はもう無いっぽいが、さまざまな知識人が連載記事を書いていた。
その中の一人に山形さんがいて、読んで一目惚れしたのだった。

こんな感じで、私は「何かの拍子に」読んだ本が多い。そしてそれは、拍子がないまま、読むべきであるのに読まずに過ごしてしまった本や、出合わずに過ごした知識や思想も多いことを意味するのだろう。
だからすごく表面的には、例えば「山形浩生という人がいるよ」と言ってくれるような人が身近にいたらなあ、という思いはあった。
本質的には、学問や芸術という大人のたしなみが、なぜ、いかに面白いかを半分子供の時期に伝えてくれる人。
昔は、その人の系統で読むべき本というのはあったようだが(例えば演劇やってるなら唐十郎の『特権的肉体論』とか)、今は本当に何も無いので、「自分よりちょっとだけ大人」の人たちから受ける刺激というのは相対的に大きくなっている気がする。

実際私も、何人かの年上の友人からとてつもない影響を受けてきたし、もし彼らと出会ってなかったらどうなっていたろう、というのは想像もできない。
だから、自分が享受したものを下の世代にもパスしよう、という気持ちはある。おこがましいかもしれないが、ギブ&テイクの精神でいきたい。(ちょっと違うか)

インタビューの最後の質問は、「あなたにとって芸術とは何か」というものだった。
情けないことにこの質問には明確に応えられなかったが、「そもそも」の精神を話した。
そもそも芸術とは何か。
かつて芸術とは、古代ギリシャなどでは奴隷でない人間、自由人が備えるべき知的技術であった。ヒポクラテスの「芸術は長く、人生は短い」の芸術は、医学のことだ。「art」という言葉は、もともと技術を指す言葉だった。
日本に「芸術」の語が登場するのは、西周が訳してからだ。彼はリベラルアーツを「芸術」と訳した。

だから日本語の芸術という概念は若い、とくに今日的な意味では。
さらに現代で「アート」というとき、そこにはまた別な意味合いが込められている。
その流れを考慮すると、「芸術」という言葉に反射的、情緒的な言及はできない。今みたいに歴史的なアプローチを加えた瞬間、「あなたにとって芸術とは何か」という質問に端的な答えを出すのは不可能になってしまう。芸術がなんなのかって問題がでかすぎるから。

切り口によって無数に問題は発生する。

私の経験から象徴的な話をしよう。中学生の頃は、「生きることに意味があるのか」という疑問で悩んでいた。とにかくその根本的な疑問が晴らせないと、日々の学業もおちおちやれねえや、という感じだった。

が、高校になってソシュール関係の本を読んで、意味というものが恣意的なものであると知る。
記号論といって、「意味するもの」と「意味されるもの」の繋がりを考えるのだが、例えば「イヌ」(意味するもの)は、「あの毛むくじゃらで、四本足で、ワンワン鳴く生き物」(意味されるもの)を表す。しかしその生き物が「イヌ」と呼ばれる必然はない。あるいは「リンゴ」でも「ウンコ」でもよかったのである。ただ、イヌはリンゴでもウンコでも孫の手でもコペルニクス的転回でもないから、「イヌ」という言葉が割り当てられている。

そこからさらに、ヴィトゲンシュタインという人が、論理学的な意味や意義(内容)を集合で考える姿勢に触れた。
ヴィトゲンさんについては細かいことは忘れてしまったが、結論だけ言うと以下のようになっている。あらゆる哲学的命題は論理的な意味を持っていなく、その命題は命題としての体をなしていない。

つまり「生きることに意味があるのか」という質問は、存在しない。(質問として成り立ってない)

この人はこのようなことを論理学や数学を駆使して証明した(のちに、考えが変わって撤回しているが)

これを読んだ時は衝撃だった。あまりにぶっ飛んだ結論に目眩がしたのもあったが、つたない感情的な思想は全くの無力であることを知ったからだった。
大人の世界の広さを知った瞬間でもあった。


だから、まあ、こういう何かの縁ではなせたのだし、みんな、大人になってほしいです。
私みたいな与太者だけど、何かのきっかけになれば幸いです。

半球の天井

昼は勉強など。
化学IB・IIの新研究?理系大学受験化学IB・IIの新研究?理系大学受験
(1996/07)
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なぜか持っている大学受験参考書。

油脂化学入門?基礎から応用まで (Sブックス)油脂化学入門?基礎から応用まで (Sブックス)
(1995/09)
黒崎 富裕八木 和久

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この本を読んで、今まで考え違いしていたことが色々分かった。間違いだらけの人生。
しかし、難しい。性質についての記述はまだ理解できるが、生化学とかの話になるとわけがわからない。一度の人生じゃ無理だ。

図解入門 よくわかる顔料分散図解入門 よくわかる顔料分散
(2009/03)
中道 敏彦

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これはまだあまり読んでないが、比較的わかりやすい方。
数式は読めないので飛ばしているが、高校の頃やった三角関数などがこういうところで顔を出したりする。
こういう面白いところで役に立つのを知ってたら、もうちょっと勉強してたかもなあ。


オイルをバライトでも漂白してみた。今までのサンプルはすべて見た目はほとんど変わらない。が、未加工のオイルとともに並べて紙に湿らせたら、若干漂白したものが色が抜けている気がする。
いっそビン入りか、皮膜くらいな極端な量の方が見え方に差が出るのかもしれない。
アクリルキャンバスか白亜地で塗布テストも必要か。


夕方、サイクリングに出かける。
こうして家に帰って、ビールが冷えるまでの間ブログでも書こうか、という落ち着いた状態だと、走ってる最中の気分の高揚を思い出しづらい。

国分寺跡から国立へと、住宅地を突き進んでいるうちに、多摩川に出た。土手沿いは産廃処理場などの工場が多い。このような風景を見たことがある。
そうだ、寒川のあたりがそうだった。
それを思い出した瞬間、昔のことが一気に思い出された。

土手の自転車・歩行者用道路に「クルクル回る」という、謎の道路標示が書かれていた。
見晴らしはよく、180度ほどのパノラマな風景、空は一面曇天の雲、そしてそれらが、クルクル回り始める、横に、縦に、そしてそのリズムにシンクロ。内的な時間の流れと宇宙の時間の流れがジャイロのようにくるくる回る。そして川はやがて海に行くんだな、と思った。川が生き物としたら、海に入ったとき終わる。死ぬ。潮の流れに消えていく。そうだ、「死を!」と「塩!」って同じじゃね? おなじじゃん。ああ、全て分かった。今理解した。それで「とーきーのーなーがーれーにみーをーまーかせー」と古い歌を歌ったのだった。

「音楽」という学問は、中世ヨーロッパではリベラルアーツ(今でいう一般教養)の一つで、楽器の音楽(我々が音楽と呼んでいるもの)のほか、人間の音楽、天体の音楽というものを扱ってる。宇宙には数学的な調和があり、それと同じ比でできている(と思われていた)人間にもそれは存在するとした上で、厳密な量的・数学的比率の理論によって表現する試みを行っていた。雰囲気的には下のような感じ。


ピュタゴラス派は、音楽上の完全音程が、
単純な数の比例に求められることを発見し(8度→1:2、5度→2:3、4度→3:4)、
ここから帰納して、世界のアルケー(根源)を「数」と考えました。つまり宇宙は、
数的調和=音楽的秩序によって成り立っていると考えたわけです。ここから
「天球の音楽」なる概念も生まれ、これらは近代まで、西欧の思想に脈々と
受け継がれていました。(人間は小宇宙ですから、勿論同様に、音楽的秩序に
よって支配されているわけです。これが、「ウィトルウィウス的人間」だとか、
ボエティウスの「人間の音楽」の思想的淵源なわけですね)

ゲーテが「詩と真実」だったかで、建築を「凍れる音楽」と言ってますが(「ファウスト」
の第二部でも、建築と音楽のアナロジーに触れています)、彼にしても、そういう伝統
を踏まえて言っているのです。

こういった宇宙の数的調和という概念は、古代は勿論、中世を通じてもある程度
伝えられていたようですが、それを最も明瞭に表現して見せたのが、なんといっても
アルベルティですね。彼は理論書の中だけでなく、実際の建築でも、ピュタゴラス
以来の1:2、2:3、3:4、それと8:9(長1度)といった比例を用いており、
「建築の音楽的調和」ということを強調していますね。

引用元: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=560813



出ましたファウスト。
昔は、「宇宙の音楽」を聞けた、という人がいたらしい。それはこんな感じだったんじゃないだろうか、と思ったのだった。

すずめつらなり、車と同じ早さ

午前、疲れていたので寝ていた。午後、舞台、衣装などの会議。夜は芝居を観にいった。サンプルの「通過」再演。
やっぱりサンプルはいいなあ。
野田秀樹に非常によく似た人をみつけた。あるいは本人かもしれない。

いつも心に水戻し餅

練習。ランニングでいつもより相当強いスパートをかけた。陸上部時代を思い出させる限界感。胸が苦しく、腕は酸欠でしびれる。

そのせいか大変疲れた。

シムシティ。

最近みた夢たち

榎本俊二の「ムーたち」に、「自分を見つめるもう一人の自分」という概念が出てくる。いわく「我を忘れている自分を冷静な目で観察しているもう一人の自分に気がつく瞬間が誰にでも必ず来るんだよ」という。
この感覚は、言われてみれば分かる気もする。夢でも、自分が登場する映像を自分とは別の視点から見ている、ということもある。現実では、 舞台に立ったとき特に感じる。
この漫画では、その「もう一人の自分」を、登場人物の背後にその人物の顔だけが浮いている、という表現がされている。さらに話しが進むと、もう一人の自分をすら客観的に見ている「サード自分」が登場する(人物の上ななめ後ろに顔、更にその上斜め後ろにまた顔が浮いている)。

この漫画を読んだ日の夜、自分にも多数の自分が訪れる夢を見た。恐らく六個くらいの自分の顔がバーッと並んで、カーブを描いて円をつくる。ああ、出た! いっぱい出た! と感動していたら目が覚める。

この後考えたことは、ジョジョの「スタンド」というものは、こういう外的な自分を攻撃的に過大解釈したものなのだろうなあ、ということ。


また別の日に、死んだばあちゃんに会う夢を見た。
場所は横浜だった。私は赤子のころに一度横浜に住んでいて、すぐに平塚に引っ越した。このころはまだ物心ついていなく、当時住んでいたあたりの地域はまったく知らない。父親の話しによるととてもガラの悪いところで、「売春とヤクザの町」らしい。
中学高校のころうろついていたのは横浜駅周辺や鶴見、桜木町あたりで、この町と遠くはないが足を運ばなかったから、近くて遠いのである。
その、知らないはずの町に来ていたのだった。

ばあちゃんは若く、喫茶店をやっていた。これは母方のほうの祖父母が現実に喫茶店をやっていて、混同されたのだと思う。非常に美人のお姉さんで、まったく印象は違ったが、なぜかばあちゃんであることは分かった。
話しをしたが、何を話したかは忘れてしまった。私は外に出て、散歩をし始めた。
そして、子供の頃自動車事故を起こした場所に行きついた。

現実に私は、幼稚園くらいの頃に、エンジンがかかっていた車に一人で待たされていて、好奇心に耐えられなくなり車を動かしてしまったことがある。車はバックにギヤが入り、後ろに駐車していた車にぶつかってしまった。
この時期はまだ記憶があまりないが、ぶつかった瞬間の衝撃と恐怖だけは鮮烈に憶えている。
父親は被害者にたいへん怒られたらしい。

夢では私はその場所に行って、何かを悟り、クレヨンしんちゃんに変身した。全裸だった。
目覚めたとき、なんか悲しかった。


あと最近、夢の中で神の啓示を受けた気がする。が、まったく忘れてしまった。多分神を信じてないからだと思う。

書を捨てよ、部屋にこもろう

午前、掃除。昼。思い出したように講義に出る。昼下がり、制作。トイレットペーパーに書の模写。これをはじめてから、随分自由に筆が走るようになったが、同時に段々オリジナルの字がいかにすごいかを理解しはじめたので、あいかわらず道は遠いのだった。

夜は油精製のテスト。
炭カル、アルミナで漂白したオイルを濾過したものと、去年のオイル、昨日買ったオイルをサンプル管につめる。(全てW&Nコールドプレスド)
漂白したものは有意な差が見られなかった。なんだい。製品の二者は、ビンに入った状態では明らかに色が違っていたが、小さなサンプル管ではほとんど違いがなかった。これは驚き。底から見ると、去年の方がいくらか澄んでるという程度。
ビンの中では奇麗でも意味がない、という言葉を思い出した。
パレット上、作品上で変化があるかどうかも試していきたい。

本やネット上の情報を頭に入れても、実際やってみないと分からないことも多いし、やることで納得できるものもある。


またシルバーホワイトをマシコットにしてみた。
これは顔料のシルバーホワイトを300℃くらいで加熱しつづけると得られる。明るい黄~ゴールドオーカーに近い色合い。顔料特性は鉛白とあまり変わらないらしい。安定性などに問題があるらしく現在は絵具としては使われてない。
顔料の加工は初めてなので、色が変わっていくのを見ると地味に感動する。

ちなみに、シルバーホワイトは普通に画材屋で買える物の中ではかなり毒性が強いものなので(特に顔料は粉末を吸い込んだりする恐れがあり危険)、取り扱いには慎重を要する。デルナーも「顔料いじるのは危ないからやめときなさい」と書いてる。

カドミウム系顔料は、油中に分散した状態ではきわめて安定度が高いと聞いたことがある。摂取しても体内に吸収されないまま排出されて、たとえ絵具をまるまる一本食っても死ねないらしい。しかし鉛はいままで画家にも中毒者が出てるので、長期的にはおそらく相対的により危険かと思われる。

マシコット

元の顔料と、作ったマシコット。

さらに、マシコットは酸に溶けるというので、少量をお酢と混ぜてみる。

ほんとに溶けた。びびった。

顔料が溶解する瞬間を目撃する絵描きってあんまりいないんじゃないだろうか。
ちょっとお得。

で、作ったものをサンプル管に採って、残りを捨てようとしたとき、鉛化合物の廃棄処理の仕方が分からないことに気づいた。
そこまで危険な物質でもないので、危険物取り扱い指南書にも載ってない。

酸に溶解させても鉛は鉛だしなあ、と思ったが、わざわざ絵具にするのも面倒だし下水に捨ててはお魚がかわいそうなので、一応酢と混ぜてティッシュに染み込ませて燃えるゴミにした。
ビーカーはテレピンでよく拭いてから、洗剤で洗う。
これでいいのか。
何か、ふらっと訪れた理系の人が気軽にコメントするような、そんな学際的なブログになればいいのに。

ふう。毎日楽しい。

歩く。アルケオロジー

新宿へしょっぴんぐしに行った。

世界堂で画材を買う。リトポンやバライト(硫酸バリウム)顔料がシュミンケから出てたので買ってみる。オイル漂白はバライトでやるのが一番オーソドックスらしい。普通に有機顔料の体質としても使う。
来年用のコールドプレスドリンシードも買ったが、おなじウィントンなのになんだか明らかに品質が違う。以前はオレンジがかっていたが、ローアンバーのようなばっちい色だ。底には不純物が沈殿している。
こっちの方がまさに未加工って感じがして、用途を考えると劣化ではない気もするが、どうなんだろう。ラベルのデザインまで変わっていた。何があったんだ。

その他、絵具や筆、墨、半紙など買う。

次にハンズへ。実験器具とキッチン用品を買う。私は料理が趣味だが、今まで計量スプーンと計りがなかった。いい加減不便だったので揃える。

そのまま高島屋の地下の食品売り場に行き、ボルチーニ茸を漬け込んであるオリーブオイルやら燻液が入ってる塩やら、珍妙なものを購入。

休憩。但馬屋珈琲店でこうひいを飲む。ここのこうひいはとても美味しい。もう一件おいしい店はあったのだが、数年前にドイツビールのバーになってしまった。(大人のおごりでそのバーにも行ったことはあるが、これはこれで非常にうまい店だ)二つとも西口の方にある。

それからビックカメラをぶらぶら見て回る。科学技術の驚異的な進歩を電気店に行く度に思う。パソコンも周辺機器も家電もえらいことになってる。ディスプレイに直接書くタイプのペンタブで、和歌を書いて遊んだ。

最後にジュンク堂へ。今必要な本を買う。

七時間ほど歩き通した。荷物はどんどん増える。
涼しい日だったが、汗だくになった新宿通り。

読書し、走り、声を出す、週末。

お昼、アトリエに行って制作しようと思っていたが、疲労が溜まってたので部屋で化学の本を読んでた。
遊離脂肪酸はステアリン酸のことかしら、と思う。というかステアリン酸て単なる脂肪酸で、エステルではないのね。
これは何年か前、絵具作り(シルバーホワイト)の実習で使ったことがある。そのときは可塑性と粘稠度を調整する役割があると教わった。
シルバーホワイトは含油量が少ないので、一生懸命湿らせなくてもいい気はするが、何か入れないとねちょねちょで非常に使いづらい絵具になるという。


夕、練習。役者が3人来るはずだったが、二人が体調不良で欠席したので、藍葉とサシだった。
でも最初はそれくらい個々とじっくりやってもいいなあ、と思った。
戯曲を「読む」力がある役者とだと、演出がしやすい。というか、ちゃんと二人で作っていく感じが出ていい。
スタニスラフスキーの方法論は、劇団むさびで新入生が入るたびに話していたので、もう話したくないが、今日はそれが体現できてるような気がした。

明日、ようやく買い物に行ける。今日は早く寝よう。

昼下がりの塩キャラメルコーヒー

体を育む体育館があるのなら、体を滅ぼす体滅館があってもいい。
アヘン窟か。

薬局を何軒か回って、オイル精製のための試薬の購入を試みる。が、どこも売ってない。調剤薬局にもデパートにも。
まあそりゃそうでしょうねえ、という気もするが。
ある絵画材料サイトでは薬局で買える、と書いてあったのに。うかつに信じて徒労してしまった。
ちゃんとしかるべきところなら買えるのだろうが、探し方が分からない。

似たような苦労を昔した。ウィンナーを手作りしようと思って、羊腸を求めて走り回った。
小金井と国分寺の知ってる肉屋を全部まわり、もしかしたら立川の伊勢丹にならあるかもしれないという情報を手に入れ、みごと購入、羊腸に到達することができたのだった。(ウィンナーは失敗ぎみだった)

食品なら大きなところへ行けばいいが、薬品はもうよく分からないので、通販で買うことにした。
http://www.siyaku.com/
試薬を扱ってるという、おもしろい通販サイト。誰でもIDを取れるわけではないようなので、現在申請中。

購入を予定しているのは、活性白土と水酸化ナトリウム(苛性ソーダというやつ)

最初は、精製は伝統的な方法で湯洗い&サンシックンドを考えていたが、もう二回くらいやったし、ちょっと物足りないので、別な方法を試してみる。

「絵画技術体系」のマックス・デルナーさんは「どうせキャンバス上で黄変するんだから漂白なんてしなくていいんじゃん」と書いていて、漂白に関しては無関心だが、「絵画材料辞典」のゲッテンスとスタウトさんは「そういう風に言う人もいるけど、まあやり方は色々あるよ」みたいなことを書いている。


亜麻仁油の精製には3つの方法がある。(1)濃硫酸を用いる、(2)アルカリ(炭酸ナトリウムまたは苛性ソーダ)を用いる、(3)塩水を用いる。第一の方法は鉛板で内ばりをしたタンクに油を入れ約2%の硫酸を加えて撹拌する。酸のためにアルブミンと炭水化物は脱色されて凝固し、沈殿するから、きれいになった油を取り出して水洗いした上で水分を除く。この方法によって漂白した油の酸価は、未精製の油の酸価より高い。この種の油は遊離脂肪酸が湿りを助ける性質をもつため、特定種の顔料を練るのに用いる。第二の方法は油を炭酸ナトリウムまたは苛性ソーダの熱い水溶液とともにかき混ぜる。アルカリの作用で石けんができ、アルブミンや炭水化物が凝固沈殿するので、きれいになった油は洗ってフラー土を用いて濾過する。アルカリを用いるだけで遊離酸は十分中和され、遊離脂肪酸の残量は0,3%から0,5%になる。このアルカリ法は一番高価につくが、最も優れた澄明さと色味が出る。第三の方法は濃い塩水を入れたタンクに油を入れ、粗硫酸アルミニウムの10%溶液または硫酸の10%液を加えて加熱すると沈殿を生じる。

「絵画材料辞典」の「油:精製」の項より



第一の方法では、鉛のタンクを用意する時点で大変なうえ、遊離脂肪酸が多い。これはエステル化してない脂肪酸のことですよね? としたら多分脱水されてないということで、だから顔料の湿りがいいということですよね? 理系?

推測だけど、汎用性が下がりそうな気がするのでパス。

第三の方法。試薬サイトに登録までするのに、塩水なんかで洗ったらつまらん。

というわけで、知的好奇心をそそり、かつ一番優秀とされるアルカリ法をやってみようと思う。
ちなみにフラー土とは、酸性白土のことだと思う。これを酸処理すると活性白土になるという。おなじようなもので、どっちみち脱色に使うつもりだったのでちょうどいい。


で、申請が通るまでの間、手持ちのもので脱色効果があると言われている顔料でちょっとテストをしてみようと思った。
漂白するよ

オイルはウィンザー&ニュートンのコールドプレスドリンシードオイル。新宿の世界堂で冷や打ちオイルを置いているのはウィントンだけなので。一年くらい放置していたものだが、油は放置する分にはいいらしい。
顔料は沈降性炭酸カルシウムと、アルミナホワイトを用意。よく洗った砂とかガラス粉でも効果があるんだってさ。

きばみ

たれたオイルを拭く。かなり黄ばみがきつい。
この油は工業的に精製されてない、未加工の一番搾りオイルで、そのまま使うことは多分想定されてない(へたな精製リンシードを買うよりはこれをそのまま使うことを推奨している人たちもいるが)。自分で一から加工したい人むけのものだと思う。

maze.gif

炭カルと油をぐちゃぐちゃ混ぜる。ワイングラスなのは気持ちおしゃれ。
アルミナは毒性があるので、空き瓶に割り箸でまぜる。マスクと手袋をつけて、粉が飛び散らないようにしよう。

raberu.gif

ラップしてラベルを貼り、三日ほど放置する。粉が沈んで上澄みが取れる。

いやあ楽しい。何と楽しい作業。油かわいい。


以下はどうでもいい話だが、実家に佐々木倫子の漫画「動物のお医者さん」があり、帰るたびに何となく読んでしまう。
これは獣医学部の学生たちの日常を描いた動物コメディなのだが、そのヒロイン(?)の菱沼さんという、公衆衛生学科で血液や細菌の研究をしている人がいる。

この菱沼さんは大変な変人だが(佐々木倫子は変な女を描くのがすごくうまい)、血液関係の仕事に就職する際、企業の人に「血に対する思いは誰にも負けません」みたいな事を言って内定をもぎ取る。

変な人だなあ、と思って読んでいたが、油が好きな私も似たようなもんだと思うようになった。

ねるこはそだつ

軽く油抜きしたシルバーホワイトに、抜けた分くらいのサンシックンドリンシードと少量のアルキド樹脂を混ぜ、ビニールをかぶせて一週間くらい寝かせておいた。(使いそびれたまま一週間経ったのだった。)

油絵具にメディウムを足すということは、絵具の時点で取れていたあるバランスを崩すということだ。だから、溶き油でゆるめるならともかく、絵具の体を保った状態で混ぜ物を入れると、物質としてちょっと気持ち悪くなる。

アルキド系速乾剤を入れたらブヨブヨテカテカして、やだなー、という思いは、よくしていた。

(しかしこれは、受験などの無茶な乾燥速度を求めて速乾剤を入れすぎるのにも原因がある。あるジェル状アルキド製品は、確実な効果を得るために油絵具に対して同量か、それ以上混ぜることを推奨している。これはとてつもない処方で、日本酒と水を一対一で割るようなものだ。樹脂は本来大量に使うものではない)

このシルバーホワイトに入れたアルキドは、絵具に対して5%くらいだったが、それでも練り込むと独特のヌラっとした感じが出てしまった。

しかし一週間経ってみると、絵具はしっとりとした品の良さを取り戻していた。

ラップなどを被せたまま放置した絵具が、特に粘りに変化をきたすことはよくあるが、絵具の質感が目にみえて変わるというのは初めてだ。アルキドがついた筆やパレットはすぐにかぴかぴになるので、その場で必要な分だけ作り、使い切ってしまうのが普通だ。作り置きしないから、こういう状況が今までなく、見落としていたんだろう。

多分、一週間の間に油や顔料、樹脂が新たなバランスでなじんだのだと思う。
油抜きすると、粘度を調整するためのロウorステアリン酸なども抜けてしまうので、直感より多くのものが出たり入ったりしてるわけだ。それらがふたたび調和しあうのに、時間をかけ直さなければならなかったのだろうな。
「絵具の科学」(ホルベイン工業技術部編)にも、絵具の熟成はなじみを促進させることに他ならないと書いてある。

油絵具は、油や顔料その他をしっかり練り合わせてから、半月~半年間寝かせて熟成させる。
これは絵具の中に混ざった空気を抜くことが目的だが、今調べ直したらなじみの問題もあるそうだ。
熟成の雰囲気はウィスキーと同じようなものらしい。ほんまかいな。

まあ、アルキドを混ぜてもしっかりした絵具になるのが分かったのはいいことだ。アルキドは大変に強度も高く、使い勝手もいいスーパーな材料で、うまく使えるにこしたことはない。


余談 トイレットペーパーに草書を書いたら、とても書きやすかった。吸収性や筆の滑りが草書に向いている気がする。今まで上手くいかなかったのは筆が悪いのか、腕が悪いのかと悩んでいたが、紙が一番悪かった。先日半紙を切らしてしまい、世界堂で唯一売ってる「吉野」を今使っているが、これ楷書以外はやめたほうがいいな。しかし、尻を拭く紙に雅な和歌が書かれているのは見てて笑える。

魂の安らぎ

バッハを聴いてる時が一番心がやすらぐ。



バッハ、小フーガト短調。




バイオリン二つコンチェルト。
ユーチューブ、長い動画もアップできるようになったのか。



シンフォニア15番。
インベンションは旋律二つだが、シンフォニアは三つらしい。

その人にとって最高のメーカーとは何だろう

初~中級者は、国産メーカーを使いながらW&Nを仰ぎ見る傾向があるようだ。
ニュートンはちょっと広い画材屋なら売っているし、お値段や存在感がそんな感じなのだろうな。

色が奇麗で体質顔料が多めで使いよく、色もいいオールマイティさという特徴が感覚的に「国産とは違う絵具」、っていうかワンランク上という印象を与えるのだろう。

玄人の人たちは大体シュミンケを褒める。戦後の一時期品質が下がったようだが、取り戻すよう努力していた。今はどうかは知らない。
シュミンケ、ムッシーニはとても高価なので手が出しづらい。

私がメインで使ってるのはターレンス・レンブラント絵具と、マイメリピューロ。
これは高顔料絵具、絵具の中の顔料の比率が高い作りになっていて、とにかく色が強い。だから、キャンバス上ないしパレット場での混色で、うまく目指す色を作るのが難しいかもしれない。だから多分、多くの人はこういう絵具には慣れておらず、使いづらいと感じるだろう。

(数ある外国製メーカーのなかで、W&Nが知名度で飛び抜けているのは、汎用性の高さにあるのではないだろうか)

そもそも、これらはグレーズに特化されたきらいがあり、現代的なインパストには向かない。

誰にとって、何のメーカーがいいのか。
趣味で描くなら、普通にホルベインやクサカベでいいだろう。日本の画材の顧客の8割は趣味のおじちゃんおばちゃんなので、使いやすくどんな技法でもそれなりの効果があり、支障ないようオールマイティなように出来ている。
古典技法を継承するなら、マイメリ、レンブラント。国産ならミノー。
クサカベの謎のプライド、ギルドシリーズを使ってみるのもいいだろう。
金があればブロックスやシュミンケ。
マニアはルーカスなどを入手してもいいんだろう。

ただ、あなたは何を描きたくて、そのためにどのような絵具を必要としているのか。
それが大前提でありつづける。
何をしたいかすら分かってない人は、それが見えてくるまでは切磋琢磨したらいい。その時の絵具は、安いものでもいいと思う。
何かが見えてきて、筆や材料の性能に限界を、「もっとこれがこうならあれがきっとかきあらわせるのに」といったことを感じたら、それに応えるものを探すといい。


でも個人的には、メーカー細かいことまで気になってしまう。
リンシードで練ってるって言うけど、どこ産のリンシード? それは低音圧搾or高温圧搾?(これとても重要)どうやって漂白したの?  それともまさかしてない?

という。考えれば考えるほど究極の結論、絵具の自作というところに戻ってくる。

だから例えば、超奮発して赤口朱とかを顔料で買ったら、ちゃんとした組成で練り上げてみたい。
メーカーが避けてる、マジの硫化水銀の絵具。

ちょっと話がマニアックになってきたので終わろうと思う。

オイル晒さねば。

絵具のメーカーによる処方の差

マツダとホルベインの油絵具は混ぜられない、という話を耳に挟んだ。確かな情報源でないからわからんけど。(クサカベとウィンザーニュートンもいまいちらしい)

多分、併用不可能だということは無いかと思われる。せいぜい考えなしに混ぜ合わせると目指したい処方からズレる、くらいの話で、極端に寿命が縮んだり破損したりすることは考えにくい。
油彩用の油、樹脂、助剤には、組み合わせとして禁忌のものはほとんどない。だからよほど特殊な材料を使わない限り、他メーカーと混ぜ合わせられない油絵具は作れない。そして、多分それは「普通の油絵の具ではない」。
そういう普通じゃないものは、油絵の具とは別なシリーズにちゃんと分かれている。例えばクサカベのアキーラとかホルベインのデュオとか。
だから、最初に述べた情報はガセだと思う。

でもちょっち気になるので、テストを作ってみた。紙パレットの上に、併用不可能とされるメーカー同士の絵具やアルキド系メディウムを混ぜ、観察してみる。

絵具たちは思想的な喧嘩はしたが、物質的な不和はおこさなかった。
ま、経験的に分かりきってることだが。
有意な結果が出るのは10年以上経ってからだろう。


「混ぜても支障はない」と書いてきたが、混ぜるときは注意が必要ではある。
最初の方に書いたように「目指したい処方からズレる」からだ。
絵具はメーカーによって、技術だけではなく、想定している技法や込められた思想が異なっている。
それらを軽視してはいけない。第一それが気にならないなら、メーカーを選ぶ意味なんてない。

一番分かりやすいのは、マツダ・スーパーだろうか。
このシリーズは、全色がポピーオイルで練られている。
乾性油はどのような油脂が含まれてるかで性能が違う。リノレン酸が多く含まれるリンシードオイルは乾燥が早く、堅牢だが、やや黄色い上に経年変化で油やけする。リノール酸が多く含まれるポピーオイルは色はきれいだが、脆い。他にも乾性油はいくつかあるが、全てリノレン酸かリノール酸の量で乾性油としての性質がほぼ決定する。

マツダ・スーパーは優秀な顔料を使用し、それらの発色を損ねないようにポピーで練っているわけだ。牛島憲之が愛用したといわれる。

しかし、ポピーの耐久性は信頼に足らないという報告もある。


一部の人(例えばアイブナー)はけし油の使用には色々な欠陥があり、特に乾燥が悪いといって賛成をしない。リノール酸の含有量が多い(ヨウ素価は150前後である)から、けし油の薄層は乾燥はするが、リノレン酸が含まれてないかもしくはほんのわずかしか存在しないために、できた皮膜は約100℃で溶解し、亜麻仁油の皮膜よりずっと軟らかく、またエーテルにも溶解し易い。

ゲッテンス、スタウト共著「絵画材料辞典」P.52



また、某メーカー技術部の方からうかがった話では、リンシードもポピーも最終的には同じくらい黄変するという。恐らく、10~20年のスパンではポピーは持ちこたえるのだろう。

(彼はだからポピーを使うメリットはないと言うが、ほとんど全ての人にとって、実際問題100年後に自分の作品がどうなってるかなど意味がない話だ、というのはある。だから意味のある時間間隔では黄変ペースが遅いことはポピーの長所と言っていいかもしれない)

しかしこの技術部の方の言葉にも、他社を低く言うバイアスがかかってた可能性も大いにある。マツダだって馬鹿ではないし、ポピー使用を決断するまでに十分なテストと思考は経過したはず。
全部込みで考えて、物性の不具合なく、かつ顔料固有の色彩を損ねない絵具としてこのシリーズを作ったのだ。

ここに書いたことだけでも、高級絵具は単に「品質がいい」という漠然とした尺度で考えることはできないことが分かるだろう。

マツダ・スーパーをリンシードで溶いてばしゃばしゃ描くのは意味がない。

良い材料は、使うと栄えて見えるということはなく、使い手の知識と技術がちゃんと反映される、という意味で優秀なのである。(これは油絵具に限らず、なんにでも言えると思う)

天国に近い音

院のアトリエで隣のO君と、このあいだ、お経の話とかをした。ああいう宗教的な音は、やはり聞いていて気持ちがよくなるように出来ている。それは鐘の音などもそうで、あれは自然界には無い波長の重なり方をしているそうだ。あの世に近い音なんだろう。

そういう「あの世系」音色の楽器でまず思いつくのはパイプオルガンかしら。


バッハのトッカータアンドフーガ。のMIDIアニメ。

これ弾いてみたいな。

クラシックを弾いてみると、古典派以前の楽曲の方が弾いていて楽しいように思う。解釈の幅が大きいような気がするので。昔の曲は、いわゆる「ただ音を出す」だけでは世界がまったく成り立たなくて、楽譜の向こうにあるものを自力で引っ張りださなければならない。その楽譜との駆け引きが、ロマン派などよりもスリリングに感じる。

バッハの時代にはピアノがまだなくてチェンバロであり、インベンションも強弱は本来ないんだけど。
安易に作っては駄目な気もするけど、まあ楽しいものだ。



十三番。




四番。




これくらい上手くなれたらなあ。

200000009

衣装・舞台。
へとへとにつかれて帰宅。
画材は買えなかった。


ばんばる。

Iに榎本俊二の「ムーたち」、島田虎之介の「ラスト・ワルツ」を借りて、読んだ。
ムーたち 1 (1) (モーニングKC)ムーたち 1 (1) (モーニングKC)
(2006/12/22)
榎本 俊二

商品詳細を見る


ラスト.ワルツ?Secret story tourラスト.ワルツ?Secret story tour
(2002/11)
島田 虎之介

商品詳細を見る


二つともとても面白い漫画だった。感想は疲れてない時に書く。

今日は動画を張ってみようと思う。





さくらかり雨のふりきぬをなしくはぬるともはなのかけにかくれん

絵具をほじくり返したり、板に膠を塗ったり、墨をいじくり回したりしているうちに一日終わる。げどげどに疲れた。

ひきつづき三十六歌仙の模写をやってる。
これは三年生の時にもやったものだ。
俵屋宗達・画、本阿弥光悦・筆の「鶴下絵和歌巻」という、巻物にたくさんの鶴がバーッと飛んだりしている絵に和歌がちらし書きされているという作品があって、それのパロディを作ったのだった。
その時も和歌を一生懸命模写して、それっぽく書けるようになったら、ミッフィーが大量に飛んでいる絵を描いてから似たように散らしてみた。
「ミッフィー下絵三十六歌仙図」大変な手間を掛けたジョーク。

当時は雰囲気だけだったが、今回はまじめにやっている。が、なかなかうまくいかない。私の字は下手である以前に、思想がないのがちょっとまずい。

模写をやっている目的は、草書に慣れることと、あと原作者の息づかいを理解するためで、丁寧に観察してなぞっていくと、原作者が筆を走らせているときのどの瞬間にどんな気持ちだったのか分かるようになってくる。どんなリズムや流れを感じていたか、またそれらを生んだ心の動きがどうだったかを理解し、追体験できるのだ。

しかし、模写にも書き手の精神が必要に感じる瞬間はある。
表面的には、模写は自分を出してはいけないというか、それじゃ模写する意味がないのだが、お手本が自分の力量と比べてあまりに勝れている場合、技術的なことよりも精神的なものが気になってしまったりする。
背景の理解が不足していて表面を十分に汲めない、と言えるかもしれない。
とにかく書道に関しては無知で、深く考えたこともない。それが精確な模写を不可能にしているように思えてしまう。
そこに行きつくと激烈に疲労する。

ただ、ちょっとずつ草書や古語が読めるようになるのは楽しい。文法は高校の頃に不真面目ながら勉強したので思い出し思い出しすればいいが、古い和歌の情緒は真剣に読まないと理解できないので、こちらは最近分かりはじめた。和歌は啄木から入ったが、やはり近代と中世では言葉も表現も思考回路も全く違うので、ほとんど別物といった感じ。難しくてしんどいけど、知らないまま過ごしてきた美意識を得るのはいいものだ。

明日、筆を買おう。そして打ち合わせも明日だった。

無無無無

 毎日帰りが遅くなってしまい、ブログがなかなか書けない。
 トレードオフ、トレードオフ。

 今日は三十六歌仙の絵巻の図版を見ながら和歌を模写していた。
 筆がちょっと寿命ぎみかも。書きづらくなってる。
 
 飲み会だったが、謹慎してお茶を飲んだ。そして即興劇をした。「サッカーを蹴る」。

 言葉にしても短く、実際に一日は短い。
 もう寝なければ。明日は打ち合わせだ。

豚野郎インフルエンザだ

ちょっと目を離した隙に俺の可愛い豚どもがみんな逃げてしまった。やはり本場のメキシコに行きたいんだろう。あと瞬間移動が失敗に終わったせいで、打ち合わせのためにわざわざ横浜から国分寺に戻らなければならなかった。打ち合わせあることを忘れてゴーバックユアセルフした自分が悪いが。雨が降っているので横浜の空気を感じられず、本など読むうちに日暮れる。ずっとほっておいたデルナーの絵画技術体系を読み進める。レンブラントは平面上で色を調和させることを「色どうしを仲良しにさせてあげる」とかいう大変きもい言い方していたらしいというので激しい萌属性を感じたりしているうちに何も黄金に輝くことのなかった休日終わる。しゃぼん。

カントを読もう

個人的には今のタイミングで休日はいらない。日常の中でしゅくしゅくと生きたい。
オイル精製のための試薬を薬局で買わなければ。
小説を書かなければ。
二曲作曲せねば。
カント読まなければ。多分、今なら読めるだろう。時間的にも。
あとデルナーを通読した方がいいんだろうな。これも読み切ってしまおう。
あと古今和歌集。

横浜に帰ります。豚型インフル危険地域の。

3の倍数で即死する私

 風が吹く。死の灰。死滅する脳細胞とお別れのために必要なハンカチがよく売れる、5月、花薫る。瞬間移動することに成功したと思った、昨日の段階では。個人的にはね。しかし破戒。「こいつ、脳死してる!」もう、嘘だろ! おい、嘘だろおおお、でも、確実に宇宙は暗黒だから。そして冷蔵庫には賞味期限を恐れながらくらす食材が贖罪をもとめてるから。食う! それは個人的な問題! あれーおかしいなって思った時にはもう実刑が下っていた。夜に見た夢だと神様が言わない夜。俺は瞬間移動した! 12時間かけて瞬間移動したんだ! そしてドアは閉まって、彼の声は二度と塀の外にはとどかなかった。三人の刑務官の誰か一人が当たりくじをもっている。ひもを切ったらくす玉が割れる。中から出てくるのが夢だったらいいね、と思ったら、中身は瞬間移動してた。誰も気づかなかったから口笛を吹いてしらないふりをした。そしてくす玉自体が落下するという! 死に至る魔法! むかしはよかったねえ、とおばあちゃんは言った。昔は、ほほえみ三滴で飛べる時代だった。帰ってこない人もたくさんいたんだって! おばあちゃんは! 行った! ほほえみのむこうに。そして後悔して戻ってきた。「あれは多分、ほんとはもっとよくないものなんだと思う」くそおおおおおおお! おばあちゃん! おばあちゃあああああああああん!! ああああああん! あああああああああああああん! おっと夢か。なんだか食べ物が冷蔵庫の中でゆっくり腐っていく気がする。そおだろう、たぶんそれあたりだろう、腐っていくものをただじっと悲しそうに見てるんだろう。電気が来てないから冷えるわけない。だから冷蔵庫に何かを求めるタイミングがまずちょっとおかしかったんだろうね。実際。あたたかい、すごくあたたかい、今日はジャージを着て神楽坂を歩いたけど暑かったから脱いでしまった。脱衣する男、俺! そしてすごく光と音のある場所に人もあって大量の文字も空に溶けていく、信長。野望はあっても、信長はない。多分現代人には。憶測だけで語りすぎる液体たちがまざって溶けていく、大量に信長が溶けていく戦国戦国、戦国とか! 首塚とかつくり笑顔とかかわいいふりして飛んだりとかもうこれ以上人が悲しむことしちゃ駄目えええええっっっ!!!! お父さんが駄目っていうから! お父さんもおばあちゃんも、そしてまだ到来しない母やきょうだいが全裸で踊れる時代がくるのをうずうずして待ってる、でもそんなものは見たくない、もうなにも見たくない、瞬間移動だってできなくてもいい、クレッシェンド!! ボーン!!! 遺憾!!! 裸だったら何もかも悪いの!!! 何もかも……みよ世界は石油で燃えている、ひとは石油を食っている、そしてひとは石になる、ものいわぬ石になる、最後にきざんだ表情が、笑顔だったらいいですね。でもまだまだ謎解きが終わってないから。かわいいふりは別にしなくてもいいと思ってるから。虚しい。崩壊する意識がむなしい。どろどろに溶けてからきれいさっぱり洗い流される海辺がむなしい。いくらでもあったはずの機会を全て逃していまだに少女になれないこともむなしくてしかたがならない。そういうことを客観的になろう、自覚しよう、そう言って飛んでいってしまった先人を何人か知ってるけど。二択問題集にしては、あまりに間違えすぎたテストが返ってくるのがこわいし、形式が自由だったときは、おもわず踊ってしまった自分もいやだから。だからそう、恥ずかしいと思おう。テストが返ってくるのは恥ずかしい。踊ったりするのは恥ずかしい。そしてもっともっと恥ずかしいって思えるはずだから。行動に移そう。今こそ、行動のときだ。謹慎! 恥ずかしさを一身に受けるために謹慎する! Do the right thing!!!!! 一瞬で崩れた。一瞬だった。少し落ち着けば? そう言うかもしれない。でも魔法以外の方法でまともになりたいのだから。帰り道、ずっと即興で詩を作って歌っていた。一つ目はやさしい、二つ目はこわい。何度もそうくり返してるうちにやさしくもこわくもない人になれたらいいなって思うようになった。空気になりたい。水になりたい。どうせしづかな野里にあるもの、だれかの思い出のなかのいろのないものになりたい。はずだった! はずだったんだ! こんなのおかしい! おかしいよ! 何でですか? この罪悪と困惑と欠乏と憂鬱は死の灰の女、昇らない太陽。しずまない太陽。死んだ人たちが見張ってるからだれにもばれないようにつぶやいた魔法の言葉が意外に汎用性が高くて我ながら驚いている。とにかく最悪だれも悲しまない風になるべきだから、こうして年をとって行こうと思う、一刻も早く。手遅れになる前に。やらなきゃいけないことはいつだって整理できる。おすましさんになれる。はにかみやさんにもなれる。需要があれば変態になる覚悟だってできている。でも誰も求めてないから。むしろほっとしてるくらいだぜ。だからあれだ、ほっとしたいんだ。人は。いつか。だからほっとできない人がいつかほっとできるように祈ったりする必要があったりするんだろうな。よし、祈るよ。俺なりに。とどく? あれだな、対象が広すぎて拡散してる気がする。また失敗か? 味噌クリームの味はまた失敗したのか? 嫌、嫌、味噌、嘘クリーム、そう、だましてほしかった、最後まで、でも嘘クリームなんだもん。タイミング的にはねえ、ありだったのよ、味噌でもしょうゆでも、でもなかったから、クリーム作ろうよ。がんばってさ。クリーム作ろうよ! クリーム作れよ! クリームを作れと俺は言ってるんだ! ねえ。分かる? 無理だろうね。ごめん。全て分かってる。その上での絶望なんです。人間がなにか創るなんて。悲しい。母親からメール。ネコの絵文字。悲しい。俺ネコ好きだけど! 好きだけどさあああああ!! あああああああああああああああ!!! おっと現実か。虚無僧ーやーの冒険か。悲しい時にはかなしいっていおうよ。おれたち、仲間じゃないか! それともフェイク? みごとなまでのもてあそび? いいだろう、キャッチミーイフユーキャン。もし無理なら俺はこのまま特攻する。脳内のセスナを頭蓋骨を突き破って飛ばしてやろう。そして人に迷惑のかからなそうなところで「もうここらでいいだろう」とか言って誰にも捧げられない死を遂げる。墓碑銘は「少女ここに死す」にしてくれ。嘘でもいいから苦笑いで立ててくれたら、最期まで嘘をつかれて死ねるから。そうして一年経ち、二年経ってから、こっそり復活して、つぎは八百屋でもやろうかな。俺が野菜を売ってると、黒いスーツを着た男たちがやってきて、「仕事を依頼したい」懐にはワルサーppkが握られている。俺は言う「もう殺しはやらない」黒スーツ「なぜだ? 今更堅気に戻れるとでも思うか?」俺「野菜は生きてるんだよ。今だって命を売り買いする商売なのさ」黒「そんな事言わずに」「やだ!」俺は白菜を投げる。黒スーツはワルサーで白菜を撃つ。フレッシュな野菜が飛散。俺は白菜を投げる。黒服に当たる。あまりダメージはなさそうだ。俺は半カットの白菜を投げる。駄目だ、白菜をとかそういうあれ以前に、とてもいい人生だとは思えないこれは。選択肢が最初から限られてる気がする。というか、殺し屋を経由している時点で限られている。幸せになれる方法が。だから困ってしまってワンワンワワン状態から回復するのには一体どのような劇薬を必要とすればいいのでしょうか。甘いものでも食べてみたら? 甘いものを……無理! 無MURI理! ああ、お星様が知ってる名前だったらお願いの一つでもするのでしょうが、太陽より遠くにあるものに我ら小市民が何かを投げかけるのはむなしいんではないでしょうか。でもいいのかもね。返ってこなくてもいいのなら。そういう一方的なコミュニケーションを、じゃあ、やってみます。何日かちょっとずつ。でも今まさにこの瞬間もろもろになっていく。やはり反応は必要なのだ。暴力の連鎖を。復讐を。そうだよ信長、いまこそ合戦だよ。火鉢に栗を、屋根には臼を。もう一人は深刻な病気で欠席している。

飲酒運転撲殺運動

免許を更新した。免許にしては写真の写りがよく、前のどう見ても犯罪者な顔から普通の青年に成長。でもマイナスからゼロへの成長を喜んでも仕方ない気もする。

諺の後に「死ぬ人もいる」を付けて、遊ぶ。
「寝る子は育つ。死ぬ人もいる」
「九死に一生を得る。死ぬ人もいる」
「二階から目薬。死ぬ人もいる」

コンテや筆ペン、オイルパス、鉛筆でドローイング。安い紙に安いインク、安い絵。紙に油は禁忌だけど気にしない。知ってることを気にしない生き方をしたい。スカートの中にはパンツがあるのを知っているが、めくったりしない。大人だから。
でも「もしかしたらはいてないかも」というのは、未知の要素ではないかね?
しかし、そこは何かを賭けるようなところじゃない。
大人は。
おとなしくいきる。

筆ペンの溶剤のアルコール臭が鼻をついて、それからふと、院のアトリエは油臭くないな、と気づいた。(油絵以外のことやる人が多い)
予備校や大学の最初の頃の部屋は、苦手な人だったら吐くくらいテレピンと亜麻仁油臭で充満している。
死ぬ人もいる。

劇団むさびの公演を観にいく(二回目)。良くなってると思った。

月が明るい。

お不動さん大暴れ

練習。八木重吉を再び読む。
もちながさんが朗読経験者であることが発覚し、ご教授たまわる。
畑が違うことには、我々はとても無知であること、
それをも学ばねばならないことを、痛感。
切磋琢磨。

悲しみは消えた。ほほ。
5月になる。紫外線の季節。リンシードを日晒ししたい。
そのために買った水槽は苔がびっしり生えてしまったので、今年はペットボトルでかな。
今回は活性白土を使って漂白してみたい。

マツダのサンシックンドリンシードは、「寒漉し」されているので、性能的には多分それで十分間に合う気がするけれど、作った方が油となかよしになれる。
なかよしの油は、よく動いてくれる。

そして諦める。


プロフィール

金城孝祐

Author:金城孝祐
劇団無敵の作・演出家。油絵も描いてる。

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