スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

エンド・オブ・サイレンス

その後ハチクロについて色々考えていたら、さっき悟りを開きました。寺を開けるレベル。グッバイ2010、よいおとしを!
スポンサーサイト

あなたと反応したい(乾燥編)

昨日シッカチーフの事をえらそうに言及したが、ちょっと気になったので調べ直してみた。

いわゆるシッカチーフというのは、鉛、マンガン、コバルトなどのリノール酸塩または樹脂酸塩の入った溶剤である。リノール酸塩や樹脂酸塩の化学的な性質は知らない。でもだって本に書いてあるんですもの! で、このうち鉛の入ったシッカチーフは無色透明で、ホワイトシッカチーフ、シッカチーフブランなどと呼ばれている。
鉛の乾燥促進は穏やかで、処方量を間違えなければ作業をいくぶん効率よくさせられる。

マンガンを用いたシッカチーフは、色が茶色である。ブラウンシッカチーフ、シッカチーフクルトレなどと呼ばれる。強力な乾燥をもたらすが、表面ばかり乾いて中が固まらず、不安定な状態を来しやすいというリスクがある。急ぎの作業に重宝するが、基本的に多用は禁物とされる。
マンガンは、絵具にはアンバー系に含まれており、これを少量混ぜる事でもいくらか乾燥促進を見込めたりもする。

コバルトのものも色は濃いのだが、使った事がない。最強過ぎるので、恐くて使えない。
しかし、マンガンやコバルトは強い酸化をもたらすので、不飽和度の低いオイル(ポピーとか)には有効という話もあったりする。

そんで、それ以外のシッカチーフにどういったものがあるかというと、コーパルが主成分のメディウムだという。ルフランのフラマンシッカチフ、ターレンスのハーレムシッカチフなどがそうなんだって。

しかしルフランというメーカーは、半分狂ってるほどメディウムに情熱を捧げているので、いくつかのチューブ状メディウムを出し比べてみるとその多彩さとクォリティに驚かされる。コーパル主体でも、どういう処方と加工でそうなるのか見ただけではまったく分からない。

ニュートンが内気な子だとすると、ルフランは自分が目立ってないと気が済まない、わがままタイプだと言える。ちなみにターレンスはツンデレである。


しかしやっぱり、油には油の気持ちがあるから、こちらの都合でせかしてしまうのはあまりよくない事ではある。油は人と同じくらい感情を持っている。

年月が彼を変えてしまったの

乾性油の黄変テストが半年経過してたので、状況報告。
学生時代に自製したオイル、今年自製したオイル、その原料のW&Nコールドプレスドオイル、そのほかW&Nシックンドオイル、そしてマイメリのウォルナットが、あらかじめ薄い油で目止めした白亜地に並べて塗られている。それぞれ垂らしたままの厚く固まった部分、指で伸ばして薄くした部分がある

まず、光を当てない部分は、どのオイルも一様に強く黄変していた。特に表面張力ぎりぎりに厚く置いた所は。自製オイルは原料と目に見えた差はほとんどなかった。なーんだ、がっかりだよ。まあしかし、精製と濃縮したのだから、安定度は上がっているはず。でもそんなの個人で調べられないしなあ。ある程度技法書を妄信するしかないのか。

そして製品のシックンドオイル、最初から琥珀色で比較的濃いものだが、黄変にもっとも耐えたのは彼だった。さすが製品、やるじゃん。ただ、これらの差がはっきりと見えるのは、通常の使用では使われない厚さの部分で、うす塗りの箇所はそこまで変らないが。(それでもW&Nのシックンドが一発明るかったな)

ウォルナットは参考までに置いたが、やはり圧倒的に明るい。おそらくポピーはもっと明るいだろう。これはマツダスーパーの存在価値を認めざるを得ないのかな。しかし皮膜を指でなでると、やはりリンシードよりも柔らかく、頼りない。
やっぱりリンシードしか愛せない。

ちなみに、なんとなくルフランのシッカチフメディウムも置いてみたが、アルキド樹脂も若干黄変するみたいね。チューブから出した時はガラスのように透き通ってたものが、ほんのり色づいている。もしかしたら金属塩が入ってて、それもあるかもしれないけど。
(多くの人はシッカチーフ=金属塩溶剤と思ってるけれど、それはあまり正確な言い方ではない。シッカチーフという名前の製品に金属塩が入ってない可能性も十分考えられる)


結論
・ウィンザーニュートンが珍しく格好いいとこ見せた
・マツダスーパーは気持ち分かる
・日晒し漂白の神話に疑問が出てきました
・アトリエ部屋を、どこから大掃除したらいいか皆目見当もつかない。

正クリスマス2010

1283272471540.jpg

「ヒャッハーーッ!! メリークリスマス、ファッキンシットども!! 俺だよ、ヒラリーだよ!! プレゼントとして画像を張っておく!! 泣いて喜べ!!」


13-1iyasi378456387fge354.jpg

1277956066000.jpg


1277985823924.jpg


1278545609164.jpg


1280750388963.jpg


1280847433116.jpg


1280936373777.jpg


1281365767704.jpg


20100905081749ccf.jpg


201010121305246f4.jpg


animals31.jpg


animals84.jpg


brilliant_pictures_74.jpg


double-meaning-photos05.jpg




そしてツンデレな俺がかわいさ全開。


13338955.png

よいお年を。

走れ青梅街道

杉並区のマスコットキャラ。

images.jpeg

なにこれ、かわいいんだけど。小金井の偽金太郎と交換してよ。


佐野画伯が結婚することになったので、冠婚葬祭の本を買いに行った。ザ・大人のマナー。こうしてマイルドに社会に屈服していく。
でも人生という即興劇にもトリックスターが必要であるのなら、あえて式ジャックしてもいいかもしれない。披露宴に乱入し「花嫁は俺だ!」とか言って半裸で踊るの。そしてブチ切れた仲人と命をかけた決闘を果たす。新郎の桜井君はそれを見て涙を流すの。そして佐野が俺を殴り飛ばし、窓ガラスをぶち割って50階から落下。俺は落ちながら「これで終わったと思うなよ……! お前たちの結婚生活は始まったばかりなのだ! ハーッハッハッハッハッ……!」というギース・ハワード的演出で退場。っていうかここまで書いて、そういうことは二次会でやれよって自分で思ってしまった。くう。

なんにせよ、めでたいな。お二方おめでとう。

恋バナつながり

世に愛を歌った曲は数あれど、
「神々の詩」に敵うものはないと思っている。

この歌詞はどういうものかというと、縄文語で
「私は名前がマポです 私に、祖父と祖母と、父と母と、兄(姉)と弟(妹)がいます」という宣言をえんえん繰り返すものだ。

縄文時代では、ふだん用いられる名前とは別に、決して他人には教えてはいけない「本名」があったという。
本名はきわめて呪術性の高いもので、うかつに口にしたら「呪われる」とされていた。
本名を他人に明かす場面は、ただ一つ。結婚する時だけだ。

だから、この歌は本名と、ルーツを声たからかに歌い上げる、いわばプロポーズの歌なのである。
僕はその切実さに涙しますよ。





恋のはなし

学芸大の人たちとモツ鍋を食酢。
恋バナがはじまり、「そもそもあなたにとって『付き合う』とは何か」と質問された。

定義づけまで遡行するのは、ある種のあやうさを伴っている。
それは、議論の前提として共有される情報となりうるが、同時に、豊かなニュアンスが削れ落ちた、圧縮された議論をもたらす場合もあるという事だ。

私はどちらかというと、おりにつけ定義づけまで遡行する作業にはあまりいい印象はもってない。
なぜなら、そういう作業が好きで、失敗してる人をたくさん見てきたから。

美大にありがちなのは、「個性」や「アイデンティティ」を過大評価する風習で、最近のはやりでは「コンセプト」もこれに加わる。

そうなると、多くの人が「私はこういう人間で、このような問題意識を持ち、こういう形式でこういうことを表現した」と言い始める。

そこには、ほとんどのケースで嘘が混じり、取り繕われている。
人間、それほど自分の事がよく分かるようにできていないもの。
自分では気づけないからコンプレックスなのだし。
フロイトのモデルで言うと、氷山の一角を根拠に、自分がどういう人間で何を背負っているかなんて語れるわけがないのだ。

私はコンセプチュアリズムが嫌いだけど、それは個人的な趣味だからいいとして、美術作品において言語化できる部分が多くある場合には、まあ説明の必要がある。
しかし、作者の技量に問題がある場合、作品は説明の道具、あるいはきっかけにすぎない貧しいものとなる。
それは本末転倒だ。

結果、恣意的で未熟な前提から出発し、当然結実しないという悲惨な状況になる。私はそれをハタから見てて恐怖すら覚えたので、「私にとって○○は○○である」という話形に非常に身構えてしまうようになった。そういう風に話さなければならない場合、私は嘘をつくか、大事なものをたくさん無視することになるだろうから。

また、内田樹風に言えば、「言葉には遂行性がある」で、つまり「○○は○○である」と言明してしまうと、無意識にそれが実現するよう働いてしまい、呪いのように行動を縛る。
人間は、本来もっと自由に動ける。

だから、人間は基本的にはロジックに頼らずとも、経験から見いだした物を参照しつつ自由に動ける思考を備えている。ロジックを用いるのは、精度か説明が必要な場合だと思う。

だいたい恋愛というのは人間と人間、感情と感情のぶつかり合いなので、ロジカルな事より理不尽な事の方が圧倒的に多い。

私もべつに恋愛経験豊富なわけではないが、冒頭の「『付き合う』とは何か」という質問には、次のように答えた。(文章にしてるので、加筆するけど)

上のような考えがあるので、定義づけはできない。
なので経験から、大事だと思う事を述べる。
一言で言うと、「忍耐」(しかし今振り返ると、正確な言葉ではなかった)
知り合いや友達程度なら、心理的な距離感は自由に取れる。
しかし、付き合うと距離はきわめて近い状態で固定される。
そのとき、人間と人間だから、性格も趣味も育った環境も思想も違う二つの個体だから、軋轢はかならず生まれてくる。
人間は、己の間違いや理不尽さにはなかなか気づかないが、他人の間違いや理不尽さには強烈な嫌悪を抱く。

愛を確かめあう場面より、そういった問題が噴出した場面での判断が、圧倒的に重要となる。

愛するなら、その人の人間性を受け入れなければならない。
自分と考え方も思想も違い、時に理解し難い言動に出る事があってすら、決して怒らず、時にはこちらから折れる。
自分の感覚が100%正しいという保証もどこにもないのだし、異物として、多くの矛盾を孕んだまま、ほかの誰にも許さない距離まで近くにあることを許し、受け入れる。
自分より優先できる他者とすること、それが愛なのではないだろうか(力説)。

だから、一言で言うと、「忍耐」は「愛」に置き換えられる。でもそれではあんまりなので、「他者性」としておこうか。
共感できないところも含めて愛せるって、大切よ。というお話。


私が恋バナすると、こういう風になるんだよ。どうだ、つまらないだろう。

小平のスピッツ

昨日は池袋でライブをやるという人がいたので、行ってアングラ歌唱を見る。ビジュアル系のバンド、アングラの劇団、ネオ癒し派の観客が約二名。現代において、あれだけ真っすぐなアングラをやるというのはどういうメンタリティなのだろうか。
あとジャモさん、町神様仮面を被って行くのは、出演者より目立ってしまって失礼だと思うぞ。

今日は小平でスピッツをコピーするという人がいたので、行って大学生バンドを見る。ライブは音圧が高いのと生物の強みで、かなり何でも許されていて、宅録ではできない表現がいろいろできる。うらやましい。スピッツのコピーバンド「雑種犬」が選んだ三曲は「俺のすべて」「水色の町」「魔女旅に出る」というかなりコアなチョイスで、何という俺得。テレキャスターの音を久しぶりに聴く。

その後多摩湖まで行き、お店やさんでニジマスを食酢。ちょっと臭いが気になってがっかり。でも鳥油で揚げた唐揚げは馬勝った。

ようやく、玉川上水の葉も落ちきり、風景は死にはじめた。こうして木々は春をしずかに待っている。

デーモンの囁き

パンドラの箱や、ニーチェの永劫回帰などは、つまり「すべてが既知であること」への恐怖や、その非生産性についての話なのだろうな、と思った。
あと最近トキオ君と哲学トークをしていて、「善とは、悟ったかのような無関心である」という命題が飛び出たので、そのことも併せて考えてみたりする。
パンドラの箱に最後に残ったのは「希望」だという説が有名だが、これは「未来が全て分かってしまうことの災い(予兆)」だったという説もある。これが外に出なかったので、人間は「未来への希望」を失わなくて済んだ、という。
とすると、トキオ君のいう無関心とは、慧眼で見通してしまったゆえに、ニヒリズムに陥ることだと言えなくもない。(箱に唯一残ったものでもあるのが興味深い)

それから、人間はある程度バカっぽさを残したり容認したりしないと生きられないのだと思った。そういう意味では、神を設定するのは人間を不完全な物として相対化するのに有効だし、効力が切れたからニーチェが現れた、なんて言ったりもできる。
むしろ、ある程度バカでなければならないから、「神の領域への越権行為」をタブーとするのかもしれない。

ぶらり旅 ボツワナ篇

http://d.hatena.ne.jp/demidemi/20080304/p1
マッチョマンは死ねるアドバイスしかできないという絶望的な記事。

http://blog.livedoor.jp/ringotomomin/archives/51586243.html
あと、これは天才かと思った。

クリスマス。目が覚めると、靴下に頭蓋骨

ネオ癒し派の年間最大の祝祭は逆クリスマスだが、本来の正クリスマスも、逆の逆というわけで、わりとめでたいのだ。
ほかにネオ癒し派が特別に定めた記念日に、七月一日(逆正月)、七月六日(サラダ記念日)などがある。ちなみにうるう年の七月一日は、一年のうち184(いやし)日目にあたり、このときネオ癒し派の超最大祝儀「邪神崇拝大会」が行われる。具体的に何が行われるかは、まだよくわかってない。

そういうことで、脚本も一段落したし、クリスマスプレゼントを置いておきます。


13298229.png

なんとかかんとか

脚本を脱稿した。
でも、しばらく寝かして、直す。
まあとりあえず、我ながらとても面白く書けたので、よかった。

涙の数だけ弱くなる呪い

奥秋は挫折した。青梅を過ぎた辺りで心が折れてしまった。でも青梅は蕎麦がうまい。いままで二回食ってどちらもよかった。青梅の青梅街道本気出してる。

最近「まっくら森の歌」をよく聴いてるが、どうやらトラウマソングらしい。私が子供の頃は、イカロスの墜落を歌った奴が絵もあいまって恐かった。
幼稚園頃など、まだ人生経験的に参照できるデータがほとんどない状態でストレンジなものに触れると、言葉に表し難い不安と恐怖があったように思う。

しかし、この冬は奇妙なほど暖かい。
牡蠣やホタテがいっぱい死んじゃって、水産業会は大変らしい。

そうはいっても夜はそれなりに冷えるので、トマトソースで野菜を煮て食酢。トマトで適当に似ると国籍不明になって、わりとうまい。
巷で噂のタジン鍋も試してみたい所だが、過酷な環境が生み出した知恵を、ものぐさに活用したものはちょっとどうかと思って手が出ないでいる。毎日タジン鍋になりそうで恐い。

マイルドに限界を目指す

徹夜しました。そして今から奥秋までチャリで行こうと思います。生きて帰れたら感想を書く。

カルトな日曜

昨日。193が休日だということで、新宿で会って飲む。「仙たん」という牛タン居酒屋でタンづくし。193が麦飯にとろろをかけたのを食ってうまそうだったので、「牛タン丼」ととろろをしめに頼んだら、丼にマヨネーズがたっぷりかかってた。わあー。

その後、ジャモさんを無理矢理呼びつけて、ライオンへとはしご。
学生の頃だったらとにかく安い店で飲むが、193は社会人で(一応私も)、たまに会うのだからちょっといい物を食べたい。
しかし予算にそれほど自由があるわけではないので、ちょっと贅沢というと焼き肉か、鍋くらいしか選択肢がない。
ゆえに、以前よりも選択肢が狭められるという逆説的状況にある。
そんななかで、ライオンはビールがそれなりにおいしく、リーズナブルである。

で、ビールやワインを飲みながらだらだらしていると、193が「これから酸素カプセルに行こう!」としきりに誘う。
なんだそれは、と聞くと、「酸素が充満したカプセルに入るもので、疲労回復や傷の治癒の促進、あらゆる健康に効く。ベジータが傷を治すのに入るカプセルと一緒だ!」と力説。そして携帯で情報収集してもらったが、どうも胡散臭い感じがいなめない。しかしまあ、この機会を逸すると行くことはなかろうし、興が乗ったので、行ってみる。ジャモさんは「いや………僕は…………今日はいい……」と離脱。

行ってみると、非常に清潔で洗練された空間で、どこかクリニックのような医術的な雰囲気がある。壁や天井やテーブルには鏡やアクリル板が多用され、非現実的世界を思わせる。そして看護士のような格好の女の人が非常に丁寧な対応をしてくれて、カウンターで映像付きの説明を受ける。

しかしどこか、内装は造花や電飾などが「やり過ぎな上に悪趣味」であり、演出に過剰なものがある。また看護士風な女性の衣裳は、襟の中央に10センチほど縦にスリットが入っており、無駄なエロティシズムを醸している。

なんなんだここは、と思いながら映像を見ていると、酸素がいかに健康にいいかを説きつつ、カプセル内は気圧を1,3まで上げるため、耳抜きができないと悪影響が出る、ということを説明し、耳抜きの方法について手ほどきをしている。

そのとき、看護士風なお姉さんが、おしぼりと水を出してくれた。彼女は水を出しながら、「酸素水でございます」と言った。

この時点で、内心耐えられずに爆笑だった。どんだけ酸素崇拝なんだ。
駕籠真太郎の漫画のようなパラノイアを感じた。

そしてカプセルに入って高気圧で酸素を摂取したが、なんかいまいちで、効果があったのかどうか分からなかった。

「金を払ってもう一度行く気にはなれないな」と、二人とも落胆した。

そんな日曜だった。


ちなみに今日は、学芸大で飯を食い、本を読み、ゼミに出て、飲んだ。第二の母校と化しつつある。

ポケモンの永遠・普遍・不滅

ピカチュウは「チュウ」とも鳴けるのか。



サトシ「はじめてーのー?」
ピカチュウ「チュウ」
サトシ「君と?」
ピカチュウ「チュウ」
サトシ「ウフフ」
ピカチュウ「I will give you all my love.」
サトシ「!?」

小学生に自生する組織化と目的化

木村君の主宰する小学生向けインプロワークショップ団体「salt-mane」(インプロの定型を模倣してるだけなので『サルマネ』をもじったという)に再び参加。

私は学部一年の頃に教職課程で児童教育法などを受けていたが、その座学のどれよりも学ぶ所が大い。

内容としては、最初にいくつかのインプロエクササイズをし、休憩を挟んだら子供たちが勝手に芝居をやりはじめ、それが一段落したら大学生(と俺)でインプロのショーを見せるのだが、この「子供が勝手に芝居を始める」のが非常に興味深い。


まずエクササイズの話から。
最初にウォームアップが必要なのは、演劇的感覚になじんでもらう必要があるからだ。
例えば、最も大きい例として、大人でも子供でも、異性の体に触れることに大きな抵抗を感じる(@鴻上尚史)。
その他、大声を出すのをためらう、大きな身振りをためらう、などなど。
特に小学生は、小学生なりの美学というか倫理をもっていて、それに強く支配されている。

しかし、劇的空間はそれらが解放されている前提で、表現としての体系が形づけられる。
なのでまず、日常の身振りから「劇的な身体」へ移らせる。

それはごく単純なエクササイズに求められ、例えば「ハイタッチ」というものでは、円陣を大きく組み、誰かが誰かの前まで走りより、アイコンタクトで合図し、同時にジャンプしてハイタッチする、ハイタッチされた人がまた誰かに走りより、の繰り返しを行う。
「走る」「アイコンタクト」「タッチ」の三つは、ウォームアップとして非常に重要な要素を持つ。すなわち、身体能力が開かれ、視線の暴露があり、他の個体と信頼を持ってフィジカルに触れ合うこと。
これが了解されている世界へと導くのであるが、その動力となるのは、集団心理学である。

この世界観に、ここにいる人間みなが了解しているという錯覚が、日常を取り払う。


私は、小学生の身体能力や精神的習熟程度、思考能力などを、自身が当時どうであったかを思い返す事によって想定可能であるが、どのような集団心理の背景に支配されていたかは、思い出すだけではわからない。

それは今児童を観察する事で、はじめて自覚できる。

児童は、条件が大人とはちがうだけで、基本的には同じ心理に動かされている。なので、一般の心理学によって語りうる部分が多い。
ただ一つ、明確に大人よりも顕著な部分がある。それは、組織化・目的化を希求しているところだ。
子供は、自身らの想像力を実現させたがっている。
それが、「勝手に芝居を始める」につながる。

どういう事か説明しよう。

これは教育に対する、ある種の反作用的な部分もあると思う。

近代において、学校や家庭など、子供を取り巻く環境は、その成熟のために、強い規制によって、長期的には自由を与えるという方法を取っている。
子供は想像力豊かで行動的だが、それに任せるだけでは進めない領域がある。
いやでも整列しなければいけない時があるし、嫌いな教科をやらなければいけない時もあるし、いたずらをしたら殴られることがある。
しかしそれに耐えて順応し、社会の成員として認められる「大人」となることで、子供にはなしえない思考・行動・技術・社会的自由を得る事ができるのだ。
コモンセンスは強い制約でありながら、大人としての自由の出発点になる。
その「大人」たちの作る社会こそ、議会が合意よって選ばれ、警察機構が機能し、インフラが整い、世論が明示され、法が敷かれることを可能にしている。

(近代的)社会とは、子供の否定に始まる。それは西欧に顕著で、子供とは「人間未満」の存在とされる。

しかしそれは大人の理論であり、子供にとっては「侵略行為」なのである。
そこにおいて大人は子供を壊滅的に侵すが、しかし子供は大人の理屈を理解しなければならず、またそうであるからこそ、そこにおいて認められたいと思う。
子供は、大人という「フィクション」をまさに吸収する課程でありながら、抑えきれない野性との葛藤の中に生きている。
だからこそ、「子供として、ありのままの想像力を十分に発揮してよいし、それは大人によって正当に評価される」という条件下において、絶大な自己実現を得る、と思われるのである。


そして、この子供が最も求めている事こそ、実現する場がなかなかないのである。
それは、しばしば大人には許容し難いものだからだ。
だが、このワークショップ団体はべつに「大人」なわけではない。そもそもこれは教育ではないし。
事実、子供らが主体的に動いている状況下では、私たちは主権を委ねていた。


子供が組織化・目的化を望むという話に戻す。
子供には子供の美学があると言ったが、その一つに、大人への帰属性が挙げられる。
言葉にすると当たり前だが、大人と子供は断絶しておらず、グラデーションのように繋がっている。
なので子供は、自身の社会的序列を、「子供ではあるが、ある程度大人へと教化されている」ことで確認する。
小学校の高学年は「低学年よりは大人」と確認し、低学年が「幼稚園よりは大人」と確認する。
そして「あくまでも子供である」ことを自覚しながら、「ある程度は大人と同じ水準でコミニュケイトできる」ことに自己を実現する。

以前触れていながら書かなかった事に、養老孟司が回顧する昔の子供の遊びがある。当時は大人たちは子供に構ってなどおらず、子供は近所の子供同士で遊んでいた。それは年齢に幅があり、そのなかで年少の子は年長の子の姿を見ながら学び、自身が年長になった時は年少の子らに大人として振る舞った。そのような序列の中で、子供は自発的に「大人」を見いだし、成長したという。

養老さんは、それが現代では破壊された、だから駄目だというが、どうだろう。
私は、今の小学生が普段どのような遊びをしているかは知らない。世間で言われているほどゲームに漬かっているのだろうか。
恐らく、そういう子もいるだろうし、弊害もあるところではあるかもしれない。
しかし、子供は経験に頼らずとも、「子供の中での序列化」は果たす。
私は見たのである。


休憩中に、子供は自然に、室内にある舞台に興味を示し、集まる。そして自然と組織化・役割分担が果たされる。

前回もそうだったが、今回にいたって、それがありありと見えた。
具体的に列挙すると、仕切り屋気質の男の子が自他ともにプロデューサーと認められ、しっかりした女の子が筋書きを指定し、年少の子に指示を出したり「この子を子役にしよう」と配役したり(まさに小さな大人!)、緞帳の操作や照明操作などの役割特化、それらが大人の指示無く、かつ個々の主体性のもとに行われる。

「個々の主体性のもとに」行われているように見えるのは、そこに集団心理があるからである。

無邪気さと渾然一体をなしながら、そこには「大人としての主張」がある。
子供だけでも、集団は組織化され、目的を果たすために動くという、「大人への反逆」とも言えるものがある。

だから、養老孟司はこの姿は見なくなったと嘆くが、機会が得られれば、子供はいつでも「反逆」しうるのである。

むしろ、その機会を奪ったことに罪があろう。
子供は本来、幼稚さを動機にしながらも「大人であること」を激しく希求する生き物なのだ。


もう一つ、具体例をあげる。
私ら講師陣も、子供に呼ばれて役者として出た。なるべく言われた通りの演技をし、最後にはオチをつける(これだけは子供には難しいし、彼らにカーテンコールをさせたいので)だけの役割だったが、子供によって、私らへの対応はやや異なる。

低学年の子は、ほとんど私らとは議論することはなく、この集団の中での「子供」と位置づけられている。
高学年の子は、私たちにも「このシーンで出て!」など指令をとばしたりして、仕切っている。私たちが「大人としての役割」を委ねているのに反応し、きちんと応える。
さらに、さっき挙げた仕切り屋の男の子は気がきいていた。私が舞台裏で「このシーンで、こう動けばいいのかな?」と確認を取ったら、彼は「そうです、それでよろしくお願いします」と敬語で言った。

ここにきて、「子供」は相対化される。
まさに、大人へのグラデーションを見た瞬間であった。

親がなくとも子は育つとはよく言ったものだ。


こうして遊びながら気付いた事に、私は彼らを、親や教師ほどには子供扱いしていないのだと思った。インプロショーをやったとき、私は児童の年齢に配慮せず、普段通りのことをやった。それでもきちんと彼らは笑うのである。しかも、表層的な部分のみならず、即興の技巧的なうまさにも反応してる。


小学校高学年とは、アウトプットだけ見るとまだ子供のような部分が多い。言動はしばしば幼く、また彼らは背が低く声変わりもしてない。しかし潜在的な判断力や精神活動においては大人に遜色ないのだと思った。彼らにはただ、知識や経験がないだけである。



空気砲



ドラえもんまであと一世紀

ゴッドマンかくーだいっ!

今さらながら、グーグルアースをはじめて使ってみて、感動した。

なんかこれを思い出した。



超若い浅田彰。逃走論とかよりもこの動画の方がよっぽど面白い。

初音ミクから美術論へのブリッジング

ミクが産經新聞に掲載されたらしい。




この曲、好きなのだけど、歌詞的には「日常の煩雑を今だけは忘れていよう」という内容にもかかわらず、「あなたは忘れたでしょ 愛し合った事も」という告発的な1フレーズが紛れ込んでいる。なので、気持ちよく酔ってるのにびっくりさせられちゃう部分もある。

正直歌詞としていらない部分なのだが、不整合であるがゆえに強く印象に残る。そう思うとマニエリスム的である。

不整合を容認するのは美術においても非常に大事で、なぜなら整合性のみを求めるとラファエロが究極になってしまうから。
しかし、人間の可能性を常に保持するならば、美から真を取り除かねばならない。

逆に言えば、ラファエロを究極としないためだけに、不整合もある意味美しいということにされている、と言える。

つまり美術とは「真に美しいのは何か」でなく、「人はいかに美を求められるか」という動機から始まる。以前はそうでない時代もあったが、近現代美術を、歴史の線的に成熟と捉えるなら、この出発点が求められる。



現代でいうと、ピカソは分かりやすいモチーフを、理論を用いて表現し切ったシビアな才能だが、一方でマティスのような、よくわからない物をよくわからない方法で表す人もまた魅力的なのである。
あるいは、デュシャンのような「いじわる」を、「意識しつつもスルー」するために、判断の「甘さ」は必要なのだ。デュシャンを本当の意味で受け入れてしまうと、西洋美術の背骨である古典美が否定され、その全てが間違いだった事になる。
(おもしろいのは、そうだとすると、デュシャンを生み出した母体が否定されて、デュシャン自体の正当性もないはずだというところね。デュシャンの偉大な点は、『肯定も否定もできないもの』が、美術作品で体現可能だというを示したところにある)

そもそも、人間は手先を動かしていると、自我も強く意識してしまうものなのだ。フランスのアカデミズムの時代でさえ、始祖のダヴィッドの時点で何か狂ってるし、直系の弟子のアングルはすでにゴーインマイウェイで、グロ君はロマン主義への憧れと葛藤の中で自殺している。あくまで古典に忠実だったカバネルさんは、かわいそうに印象派の敵役として残ってしまった。美術など真を求め得ないのであり、ラファエロですらそれにならうのである。


西洋美術のチャームポイントは、「古典期ギリシャ美術」まで遡行できるという点にある。空間再現性とか技術・理論的程度とかは実はあまり重要じゃなく、「あそこから始まってる」ことが重要なのだ。

なぜかというと、絵づらや技術的なことよりも、美術が成立する条件を受け継いでいることのほうが美術史を断然アイデンティファイするからである。

古典美術を継承するには、使われていた顔料や大理石を十分に産出する地相、メディウムが適合する風土、またその他の手段を消去する諸条件が揃っている必要がある。
西洋が、中世という大きな断絶を経てなお伝統をつなぎ止めたのは、そのような理由があったからだと思う。
でなければ、イスラーム世界が先んじていてもよかった。しかしこれは宗教的制約が強かったのである。

だからこそ、西洋美術は連続性に乏しいくせに、いや、だからこそほとんど脅迫的にと言っていいほど系統に執着する。



ところで、その規範となる古典美自体が、不整合を容認している部分もある。
先日、ミロのヴィーナスは腕が切れているからこそ美しいと発言した人を見たが、それで改めてその石像について考えてみた。

思うに、まずあれは、全体が調和するべくして計算された古典美において、欠損しつつ美しいフォルムを保っている事がありえないのだろう。人為的には、あの切り方は発想できない。だからこそ貴重なのだろう。

あるいは、サモトラケのニケよろしく、無いからこそのファンタジーもある。


だから、究極を求めて邁進する西洋美術自体が、実は非常な矛盾の上に成り立っているという言い方もできるのかもしれない。古典の史料は、古典美だけを提示してはいないのだから。


縁起と景気はいいほうがいい

ニコニコ動画が、公式に年間チャンプを決めるという。再生数やコメント数をもとに、すでに何作かノミネートされている。
https://secure.nicovideo.jp/secure/entry_award

個人的には、「吹 っ 切 れ た」はムーブメントの震源地だし、作者のラマーズPも大きく評価されてしかるべき人だと思うけど、動画自体はいまいち寂しい。
一方コマ撮りアニメは5次作品くらい(東方project→Bad apple!!(曲)→絵コンテ→影絵→コマ撮り影絵)で、先人の恩恵にあずかる面がなきにしもあらずだが、労力と動画自体の面白さで、頂点に立ってもいいかなと思った。CNNを釣ったという逸話もあるし。





ただ、このノミネートの選考基準、いまいちよく分からない。普通に考えると今年は「エルシャダイ」や「ふしぎなくすり」「ミツバチ」なども入るはずなのに。
視聴者の推薦でまだノミネートを追加できるようなので、地味だけど評価されるべきものをあらかじめ挙げたのかな。でも落ち穂拾いを最初にやるって変よね。


粒々











こうしてみると、音楽ってやっぱいいよね。

先賢の英知をくじく

諺の頭に「残念な」をつけて、遊ぶ。

残念な猫をかぶる
残念な河童の川流れ
残念な国士無双
残念な 男心と 秋の空 (川柳風リミックス)
残念なミイラ取りがミイラになる
残念な 笑う門には 福来る (川柳リミックス)
残念な名物にうまいものなし

あとは尻に「フィーバー」をつけて景気をよくすることもできる。

毒を食わらば皿までフィーバー
石橋を叩くフィーバー
盗人に追い銭フィーバー
苦虫を噛み潰すフィーバー
旅の恥は掻き捨てフィーバー
壁に耳有り障子に目有りフィーバー(妄想気分リミックス)
味噌をつけるフィーバー(美味しんぼリミックス)
血で血を洗うフィーバー
弘法も筆の誤りフィーバー
下手の考え休むに似たりフィーバー(知恵熱リミックス)


または、尻に「ねこ」をつけることで強制的にネオ癒しリミックスできる。


石の上にも三年ねこ
売り言葉に買い言葉ねこ
豚に真珠ねこ
塵も積もれば山となるねこ
張子の虎ねこ
犬の遠吠えねこ
犬と猿とねこ



コモンセンス

リベラルアーツはもはや存在しないのか?

芸術に生きながら、学問をも踏襲するのは不可能なのか?

知を人間が広げ過ぎたのならば、後世は無知を強いられるのか?

そう思う事もあるが、歴史はその時その時に、その時なりの難儀がある事を教えてくれる。

条件はいつも同じ。ダーリン。

関係ないけど、カブトボーグがニコニコチャンネルでやってるらしい

友達に誘われて、麻薬をやれるというクラブに行って、行ったら散剤のMDMAが出てきて、興味本位で紅茶に溶かして飲んで、そしたら隣にいた奴が実は覆面刑事で、手錠をかけられて、人生オワタと思った瞬間に目が覚めた。
麻薬だめ絶対。
そんなこんなで目覚めの気分は良くなかったが、数日ぶりに体が軽かった。勢いで執筆。

プロットの最終部、持って行き方や落ち方をうやむやなままにしていたのを、かっちり組み終える。後はほんとに書くだけ。

ちゃんとアイデアが出るのはありがたい。しかし予め想定していたよりも、すごく悲しい話になってしまった。でも一度思いついてしまうと、これ以外のラストはありえない。

なぜ長編を書くと、毎回悲劇になってしまうんだろう。謎だ。

進化するボカロ

クリプトンが新発売するらしい。




あと最近はUTAUもキャラが増えてるらしい。





脚本を上げてしまいたいが、どうも手が止まりがちになる。
あと文学ゼミで大江健三郎についてレジュメを作ることになった。そっちもやらねばならないが。あと、アトリエの電気代を払わないと。暮れまでには穏やかな生活にしたい。

スペインの流儀




アディオスアミーゴ、ハッ!!
プロフィール

金城孝祐

Author:金城孝祐
劇団無敵の作・演出家。油絵も描いてる。

最新コメント
カレンダー
11 | 2010/12 | 01
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。