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初音ミクから美術論へのブリッジング

ミクが産經新聞に掲載されたらしい。




この曲、好きなのだけど、歌詞的には「日常の煩雑を今だけは忘れていよう」という内容にもかかわらず、「あなたは忘れたでしょ 愛し合った事も」という告発的な1フレーズが紛れ込んでいる。なので、気持ちよく酔ってるのにびっくりさせられちゃう部分もある。

正直歌詞としていらない部分なのだが、不整合であるがゆえに強く印象に残る。そう思うとマニエリスム的である。

不整合を容認するのは美術においても非常に大事で、なぜなら整合性のみを求めるとラファエロが究極になってしまうから。
しかし、人間の可能性を常に保持するならば、美から真を取り除かねばならない。

逆に言えば、ラファエロを究極としないためだけに、不整合もある意味美しいということにされている、と言える。

つまり美術とは「真に美しいのは何か」でなく、「人はいかに美を求められるか」という動機から始まる。以前はそうでない時代もあったが、近現代美術を、歴史の線的に成熟と捉えるなら、この出発点が求められる。



現代でいうと、ピカソは分かりやすいモチーフを、理論を用いて表現し切ったシビアな才能だが、一方でマティスのような、よくわからない物をよくわからない方法で表す人もまた魅力的なのである。
あるいは、デュシャンのような「いじわる」を、「意識しつつもスルー」するために、判断の「甘さ」は必要なのだ。デュシャンを本当の意味で受け入れてしまうと、西洋美術の背骨である古典美が否定され、その全てが間違いだった事になる。
(おもしろいのは、そうだとすると、デュシャンを生み出した母体が否定されて、デュシャン自体の正当性もないはずだというところね。デュシャンの偉大な点は、『肯定も否定もできないもの』が、美術作品で体現可能だというを示したところにある)

そもそも、人間は手先を動かしていると、自我も強く意識してしまうものなのだ。フランスのアカデミズムの時代でさえ、始祖のダヴィッドの時点で何か狂ってるし、直系の弟子のアングルはすでにゴーインマイウェイで、グロ君はロマン主義への憧れと葛藤の中で自殺している。あくまで古典に忠実だったカバネルさんは、かわいそうに印象派の敵役として残ってしまった。美術など真を求め得ないのであり、ラファエロですらそれにならうのである。


西洋美術のチャームポイントは、「古典期ギリシャ美術」まで遡行できるという点にある。空間再現性とか技術・理論的程度とかは実はあまり重要じゃなく、「あそこから始まってる」ことが重要なのだ。

なぜかというと、絵づらや技術的なことよりも、美術が成立する条件を受け継いでいることのほうが美術史を断然アイデンティファイするからである。

古典美術を継承するには、使われていた顔料や大理石を十分に産出する地相、メディウムが適合する風土、またその他の手段を消去する諸条件が揃っている必要がある。
西洋が、中世という大きな断絶を経てなお伝統をつなぎ止めたのは、そのような理由があったからだと思う。
でなければ、イスラーム世界が先んじていてもよかった。しかしこれは宗教的制約が強かったのである。

だからこそ、西洋美術は連続性に乏しいくせに、いや、だからこそほとんど脅迫的にと言っていいほど系統に執着する。



ところで、その規範となる古典美自体が、不整合を容認している部分もある。
先日、ミロのヴィーナスは腕が切れているからこそ美しいと発言した人を見たが、それで改めてその石像について考えてみた。

思うに、まずあれは、全体が調和するべくして計算された古典美において、欠損しつつ美しいフォルムを保っている事がありえないのだろう。人為的には、あの切り方は発想できない。だからこそ貴重なのだろう。

あるいは、サモトラケのニケよろしく、無いからこそのファンタジーもある。


だから、究極を求めて邁進する西洋美術自体が、実は非常な矛盾の上に成り立っているという言い方もできるのかもしれない。古典の史料は、古典美だけを提示してはいないのだから。


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金城孝祐

Author:金城孝祐
劇団無敵の作・演出家。油絵も描いてる。

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