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町への愛と、若者の神

「天体戦士サンレッド」が、なぜ気になっているか分かった。川崎市への愛であふれているからだ。(この話は川崎が舞台となっている)

川崎は私の住んでいた横浜のすぐ北にあり、昔はちょいちょい遊びにいった。かなり個性の強い町という印象を個人的に持っている。サンレッドの登場人物はボロアパートに住む若者、同棲してるヒモ、ホスト、生活臭くて気づかいあふれるおばさん(のような人)、不良の高校生(みたいな人)などなど、全体的に見れば「ああ、言われてみれば川崎だなあ」と共感できるようなメンツだ。話の舞台も溝の口とか二子玉川とか、神奈川の人以外にはあまり知られていないだろうマイナーな場所である。
こういう設定は、愛がないとできない。だから人物が無駄に細かく魅力的なのか。

私も小金井のことはよく話にしたりする(『清潔』では小金井市が舞台だったり)。が、この地は治安がとてもよく、住民もアッパーミドルクラスが多いのでドラマティックな町ではない。旧い家もわりかし立派な日本家屋が多いので、昔からそういう町だったのかもしれない。だから私が書く小金井の出来事は全部フィクションといえる。
だが今日、自転車で走っている途中で、Tシャツにパンティ姿でお庭の草むしりをしてる中年女性を発見した。その瞬間は「ここは魔境か?」と思った。住宅地にも木々が多く鬱蒼としているので、そういう妖精がいてもいいような気はするのだった。

その自転車で走っている間、「自分の世代はどのような前提で表現に関わっているのか」という事について考えていた。
先日実家に戻っている間、父親と「作家の持つ原風景」といった話をした。例えば五木寛之は戦後の焼け跡から始まっているし、別役実は満州の荒野からはじまっている(何もない荒野に電柱・電線だけが通っていて、その先には都市があるはず。人間への手がかりがそれしかないという風景)。全共闘を見ながら育った世代もあったろう。
一方昭和六十年生まれの私には、幼少期に世代的なクライシスはなかったのだった。平成不況は日本経済には大きなダメージだったが、子供の精神に直接影響するものではなかった。

原風景に限らず、今の若年層は世代的な体験というものに乏しい。就職難がせいぜいだろう。だから己のいる世界を解釈する材料としての体験は、共通のものでなく個体のものへと移ったように思える。

かつて20世紀文学は、「自己という怪物との戦い」だった(と言う人がいる)。ジェイムズ・ジョイスやプルーストがそうだった。が、後にスポットの当てどころを人間ではなく社会に変えた文学が現れる。それが「共産圏の理不尽」を書いたミラン・クンデラ、「100年の歴史の中で生まれ、死んでいく人々の系譜」を書いたガルシア=マルケスなどだった。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
(1998/11)
ミラン クンデラ

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百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
(2006/12)
ガブリエル ガルシア=マルケス

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これらの書では、人間は「小さいもの」として書かれている。内的な葛藤というのは部分に過ぎず、世界は大きく解釈される。
(ただミラン・クンデラは、自作を『ラブストーリーだ』と主張している。それもまた確かな事だが)

が、現代の日本においては、物語は小さくなった。そしてそれは、文学的な逆行や停滞ではなく、今までとは別ものの「自己」が表されるようになる。
人間を描いた文学においては、世界は前提として機能していた。だが、現代においてはそれは「あるのは知っているがよく分からないもの、あるいは必要とあらばその一部や精神的影響を無視できるもの」となったのである。
個人の体験においてのみ解釈される世界とは、モンスターではなく、単にストレンジャーなものなのかもしれない。

それを象徴するのが、一昔流行った「セカイ系」だろう。
詳しくは知らないが、恐らく「新世紀エヴァンゲリオン」あたりから、個人の感情や思考が世界観において絶対的な基準となる構図が確立した。そこでは世界の出来事は重要でなく、主人公シンジ君の内面こそが世界である。実際エヴァは全編を通して、正確には何が起こってるのかさっぱり分からないアニメだ。矛盾のない公式の解釈というのが存在するらしいが、それは絶対にこじつけだと思う。あるいは、作品に全く反映されてないから意味がない。

「ストレンジャーな世界との遭遇」という図式自体は昔からあるが、ここにおいてはストレンジャーが、ストレンジャーである点についてはさほど問題視していないという大逆転がある。

これが、若者にとっての自然な感覚と言っても、言い過ぎではないのではないか。
セカイ系のブームは漫画・アニメの一部で起こった事だが、このような作品群が生まれえた事も考えると、次元は違っても一般的に存在する感覚であるといえよう。

内田樹がこんな体験談を言っていた。「教え子の女子学生が、外来語が多様されているファッション雑誌を愛読している。が、そこにある外来語の意味を聞くと、その学生はわからないと答えた。その学生は、『理解できない多くの語がある』ことを無意識に無視し、全体を理解したつもりになっていた」

ストレンジャーについて、もし自分が理解を望まないなら、無視あるいは自分の文脈で補完することで、問題なく世界と接触する事ができるのである。

こうして若い人は、世界を見る。そして世界を見るためには、世界はストレンジャー以外のものであってはならず、「世界を常にストレンジャーなものとして管理する絶対的な自己」という神を捨てる事ができない。


以前、このようなことを簡潔に言い表した文章を読んだ事がある。いわく、これは「自然な自明性の喪失」どころではなくて、「『自明性の喪失』が自然」と言える。

この件についての最大の問題は、「問題なく世界と接触する事ができる」点である。多くの人は、この点を「よくない」とする。たしかにこういう姿勢は、視点の精度を著しく落とす。が、当人たちは「それでよい」のである。この感覚で生きていく事はできるからだ。この状態のままで、個体は社会的に機能することもできるし、精神的なリスクも避けられるのではないか。むしろ「若い世代の私の世界に対する位置、体験などは特に根拠に乏しい」ことを自覚してしまうというクライシスを起こさないためのセーフティとして現れたのかもしれない。

(……あるいはもともとは、社会変動の少なかった原始社会では、世界に対して鈍感であることがデフォルトで、批判精神を持つのは偏差的なもの、病気だったのかもしれない。それを言ったら、文明は生物の病気、生物は物質の病気……)

ということを考えてました。
だから私は根拠のない作品を書くべきなのではないか。世代として。でもそれが根拠になるのか。やだなあ。

少なくとも「作家はある切実さをもって表現をする」という神話をなくすしかない、というのはある。これは人間の普遍的で自然な感情に反してるが、もうそういう姑息なコンセプトしかのこってないのだ。因果な事だ。

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金城孝祐

Author:金城孝祐
劇団無敵の作・演出家。油絵も描いてる。

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