FC2ブログ

調査対象が少なすぎると神秘扱いになる

昨日の舞台美術の打ち合わせで193らと色々話し合い、根本的な問題についていくつか得るところがあった。

そしてインスピレーションというものについてすこし考え直してみる。インスピレーションについて考えるときいつも思い出すのは、中原中也とジャック・デリダの二人だ。彼らは非常に良く似たことを言っていた。

それはおおむねこういうことである。書くべきものは作家の中にあるのではなく、外部にあり、それはあたかも空気中をふわふわ漂っている。作家はそれを掴み、媒体し、作品に定着させる、それだけの存在だ、という。

中原中也は、空中をふわふわ漂ってるものを「言葉にならない言葉」と言った。それを手でつかみとり、言葉にしてやるのが自分の仕事だと。

インスピレーションは、しばしば外的なものとして捉えられることが多い。だが、それがどのように訪れるかはまた種類を分けられる。100年前の西欧の詩人が「ミューズ」とそれを呼んでいた時は、それはおおむね天から降ってくるようなものであり、ある種の恩恵のようなものだった。ラッキーだったのである。
だが、中也にとってそれは身近なものだった。それは身の回りを漂っている。そして、つかむことができれば、言葉にしてやることができた。

これはヨーロッパの文学が、作者の内的なものに特権を与えていたことが、インスピレーションを遠くのものに感じさせたのかもしれない。書かなければならないことが「あたりにふわふわ漂っている」という感覚は、当時は理解しがたいものだったろう。

デリダが中也と同じことを言った理由は、デリダ自身にその感覚があったほか、インスピレーションの形に上記のような天啓ではないものもあると示したかったのではないかと思う。

が、藤枝晃雄さんによると、この感覚は「当然のことであり、偉そうに言うものではない」らしい。デリダの話は、この人の講義で聞いた。
この批判から考えられるのは、そのような感覚に基づいた作品、あるいは作品を作る作家が既に多く存在し、タイプとして成り立っていること。

そのような「寄せ方」あるいは「呼び方」は、特別な感覚ではなく、ある種類の感覚である。

中也の「言葉にならない言葉」を感じ、つかみとるという妙法を可能にしたものは、最も漠然とした言葉で言えば「才能」と言える。それをすこし細かく見るのならば、「ある種の感覚を持ち、それを作品にする技量と、適性があった」ということだ。

一般に、すぐれた才能とは独自の知覚を持つと思われている。が、恐らく感覚の種類は、思っているほど多くはない。作品は感覚と知識と技術がどのような加減で統合されるかによってはじめて独自なものとなる。


だから、いかなる媒体にせよ、感覚を過信しすぎてはならない。それらは意外なほど不自由であったりする。


コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

金城孝祐

Author:金城孝祐
劇団無敵の作・演出家。油絵も描いてる。

最新コメント
カレンダー
11 | 2019/12 | 01
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター