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妙な話

白川静と梅原猛の対談がおもしろいので、いくつか抜いてみる。
古代中国の漢字学や思想についての話である。とくに孔子の研究が非常に興味深い。


梅原 話は変わりますけど、先生の『孔子伝』、孔子が巫女の私生児というのはショッキングな説ですね、あれは。
白川 そうですか(笑)あなたのお株を奪うたような。
梅原 文字の解釈も驚きが多いですけれどね。孔子の解釈はまたギョッとしましたね。
白川 いやあれはね、孔子というのはね、あまりにも偶像化されて、『史記』の時代にはね、もう完全に偶像化されていますからね。儒教が国教になっておったし。だけどもね、孔子の名前がだいいち変ですね。名は丘、字は仲尼。「仲」というのはこれ、「伯・仲・叔・季」(※1)やからね、周の命名法です。これがね、尼山に祈って生まれたからね、名を「丘」として、字にこの「尼」を採ったという風に考えられている訳ですね。だから尼山に祈って生まれたということは、これではっきりする。
梅原 そうですね。
白川 うん、伝説でもこれは一応認めておる訳ですね。ところがね、孔子の弟子の弟子ぐらいの時代にできた『礼記』の中のね、「檀弓」とか、「曲礼」とかいうようなのはね、『礼記』の中でもわりに古い、漢に入る前に出来ておるんですが、その中にね、孔子が自分の父母の墓の在り場所を知らなかったという話が書いてある。これはね、孔子が家柄の子ではないということです。
梅原 ああ、家柄の子は父母の墓の在り処をみんな知っている訳ですか。
白川 家柄だったら、そりゃあねえ、家の先祖の祭をしているはずです。
梅原 中国は先祖の祭を大切にしている。
白川 しかもね、父と母の墓がね、別々であったという。これはね、れっきとした家庭ではないということですわな。それで孔子がね、これを一緒にしたいと思うて、墓を築き直して合葬した。ところが、大雨が降ってね、墓が崩れてしまった。これはね、墓というのは、再築出来んのです。それで孔子がげん然として涙を流して泣いたということがね、「檀弓」の中には書いてある。
梅原 そうですか。とすると孔子は家柄が良くないことになる。
白川 そういうことから考えるとね。

(中略)

白川 そうそう。それから孔子がね、あなたは非常に多能である、と人に誉められるんですよ。そうするとね、「我少き時、賤しかりき」、わしは非常に下賎な身分であった、「故に鄙事に多能なり」、とね。「君子は、多ならんや、多ならざるなり」と、君子がそんなに多芸であるということは無いのである、と孔子は嘆くように言っているのです。
梅原 それは、それも『礼記』ですか。
白川 『論語』の中にある。
梅原 『論語』の中。ああ、そうですか。
白川 『論語』の中、「子罕」篇に。これは孔子の言葉としてある。
梅原 それと『礼記』を合わせると……
白川 そう、そうなると『史記』の孔子の伝は崩れてしまう(笑)。

(中略)

白川 孔子と同じ時代の墨子がね、孔子のことをよく書いとるんです。それもまともに孔子と呼ばずにね、孔某と称しておる。
梅原 ほーう。
白川 いくらか見下げた言い方でね。
梅原 やっぱり家柄故ですか。
白川 いや、魯の国でね、みだりに反乱を起こして国を追放されたとかね、彼は結局革命者であったけれども、こっちから見たら謀反人ですわな。
梅原 家柄は関係ないですか。
白川 いや、家柄でなしにね、墨家とは活動の仕方が違う。社会の秩序をね、積極的に創るというのではなくて、むしろ破壊しようとしとるというて、墨子は非難しとるのです。
梅原 そうですか。
白川 それで、墨子自身は一種の共同体みたいな工作者の集団でしたからね。彼らは、集団性の強い職能者であった。これは本当はね、墨刑を受けた、刑罰を受けた刑務所の連中ですよ、今で言えば。
梅原 墨子は。ほーう。
白川 それが、王宮とか、或は大きな神殿とか、そういう風な所にね、部属として使われておる。そう言う集団が、自分たちの属していた貴族階級が崩壊した後に独立して、共同体的な組織で活動している。だから、墨子の立場から見ればね、身分階層を重んずるというような孔子はね、もう目の敵なんですよ。
梅原 ほう。
白川 だから、孔子に対してはね、非常に厳しい批判をしておる。
梅原 そうでしょうね。
白川 そういう面から見ていくとね、儒教の在り方が良く解る。彼らは金持ちの葬式があると、嬉々として喜び勇んでね、集まってくるではないか、というて非難する。
一同 (笑)
白川 孔子は葬式屋であった訳ですよ。
梅原 ほう。
白川 葬式屋と言うたらおかしいけれども、儒教の文献で、『礼記』四十九篇のうちの大部分はね、葬式の儀礼なんですよ。葬祭なんです。
梅原 そうですね。
白川 それを儒教が担当しておった。それで、墨子集団は、一種の工人集団であった。

(中略)

梅原 しかし、先生の孔子論は儒教の伝統を否定するような考え方ですね(笑)。やっぱり、大変ショッキングな考えですね。『論語』なんか読むと、今まで非常に理性的に解釈されて来たでしょ、そういう解釈がひっくり返って来る訳ですね。
白川 そうです。
梅原 やっぱり神様が中心になって来る。
白川 いや、もっと人間臭い人です。親しめる人ですよ。
梅原 ああ。
白川 なかなか、やんちゃなところもある。うん。
梅原 そうですか。
白川 あれに「光背を付ける」ということはね、ちょっと無理なように思う。

(中略)

白川 例えばね、人間として一番良い在り方はどういう生き方か、と訊かれるとね、孔子はね、理念的には中庸の人間が一番よろしい。中庸がよろしいが、しかしどんな場合でもね、中庸を失わんという、そんな人間はおらんのです。それで、次にはどんなのがよろしいかというと、孔子はね、「狂狷」の徒がよろしいと言うておる。「狂」というのは、進みて取る人。「狷」というのはね、死んでも決してそんなことはしませんというほどのね、潔癖性の人間。
梅原 それは「中」と反対ですわなあ。
白川 狂狷の徒がよろしい、と言うんです。それでね、知恵者がよろしいとは言うておらんのですよ。
梅原 しかし、詩人なんてのはやっぱりの狂狷の徒ですよ。
白川 そうですね。
梅原 狂狷の徒じゃなくてはね、詩人、文学者にはなれませんよ。
白川 大体ね、左右に振子運動しなければ進めんのです、ものは。(身振りしながら)こうやらんとねえ、進めない。ロケットでない限りはな(笑)。
梅原 そういう人が面白い人間じゃないですかね。孔子自身も、自分を狂狷の徒と思ったでしょうか。
白川 自分でそう思うとるに違いない。そりゃあ彼はね、何遍もクーデターをやっとるんだ。それに失敗して、斉の国に逃げたり、或は衛や宋、陳・蔡から楚にまで逃げたりしとるんです。
梅原 そうするとやっぱり、失敗した革命家ですね。
白川 それで晩年の、一番大事な時にね、十数年も流浪して。帰って来て安穏であったのはわずか数年ですよ。
梅原 つまり失敗した革命家なんですよね。
白川 そうそう。まあ理想主義者であった訳です。
梅原 巫女の私生児で、そして失敗した革命家となると、もう狂狷ですね。
白川 だからね、孔子を悟った人間にしたらあかんのですわ(笑)
梅原 我々に近くなりましたな。ちょっと書きたくなりますねえ、それは(笑)
編集部 居を定めず流浪する、というところにまた魅力があるんでしょうかね。
白川 いや、彼は追放されたの。追放されたからね、仮に人が殺してもね、刑法上の対象にならん。
編集部 孔子を殺しても?
白川 ああ。殺す者罪なし、というのが亡命者の運命であった。


※1 周の用語法で、兄弟の序列を示す。殷では大・中・小で区別した。名の上に冠して用い、例えば伯丁父、叔夷鐘のようにいう。






孔子の遍歴の道程に関わったという、陽虎という人物の話。


梅原 私が面白かったのは先生が陽虎(陽貨)という人物を出して来たことですね。この陽虎と孔子は表面敵対しているけれども、本当は似ている面があるんじゃないかと。そして魯の国を去って逃げていく、陽虎のいる所を避けていく。こう言う指摘は先生が初めてなさったことでしょうか。
白川 今までそれを言うた人は誰もおらんのです(笑)。しかし陽虎の動きを見ているとね、孔子がなぜ魯の国を逃げ出して斉の国へ行ったのか。そしてまた慌てて魯の国へ戻ったのか。最後の亡命の時にね、彼は山西省の晋に行くつもりであった。魯と晋は比較的関係がいいんです。それであらかじめ工作もしてあって、晋へ入るつもりだった。
 ところが陽虎が先に入ってしまった。そしてその地で実際に教団を作り弟子を持ち、一つの勢力を築いておるんですよ。だから孔子は入れない、仕方なしに宋、衛の方へ回っていくんですね。だから彼が魯への帰り道に回顧して、「丘の河を渡らざりしは命(天命)なるかな」と言うている。孔子がなぜこんなことを言っているのか、誰もその意味を汲むことが出来なかったんです。
梅原 どういうことですか。
白川 なぜかと言うとね、陽虎が居ったからです、行けなかった。晋ならば大きな国ですしね、孔子としては自分の理想現実によい場所だと思うておったんですが、そこへ入れなかった。
 陽虎とは初めから敵対者であった。僕の考えでは、陽虎は孔子よりニ、三十歳年上ではなかったかと思う。孔子は魯の王様が学者を召すということを聞いて、のこのこ出かけていくんです。すると陽虎が居ってね、「お前はまだ少年ではないか」と言って、門前払いをくわすんですよ。それから孔子がいくらか名声を得る頃になると、陽虎は彼を門下に入れたくなった。だから自分の所へ来いというんですがね、孔子はなかなか行かない。そうすると陽虎はね、孔子の留守中に蒸豚を一匹届けさせるんです。目上の人から贈物を貰うと、自分で直々に参上して御礼を言わねばならぬ。孔子もさるものですからね、陽虎が留守の時を見計らって行くんです。ところが途中で出会ってしまう。すると陽虎がね、「立派な才能を持ちながら世に出ないということは賢いと言えるか」と言うんですね。孔子は仕方なく「それは良い道ではありません」と答えると、「日月逝きぬ。年我と與ならず」ですかね、陽虎は詩のような言葉を吐くんです。レベルの高い言葉を使うんです。だから彼は学者であったと思う。

(中略)

白川 だけどもね、陽虎のやり方というのはね、いわゆる魯の三桓僭主と言われるようなそういう連中を取り込んでね、自分が専制力を持ちたいと言う、そういうやり方だった。孔子の方はね、三桓を除こうというやり方だった。これを温存したのでは僭主制は崩せませんからね。政策的には基本的に違う。
 だけども古典の教養があって、弟子をとって、これからの政治はそういう賢哲の政治でなくてはならんというね、理念を持っておったことは共通です。陽虎は政治力でやり過ぎた。孔子の方は馬鹿正直で、革命、変革というものを政治的に上手に仕上げるということができんのです。だから失敗ばかりする。
梅原 孔子の描く理想社会というものが純粋すぎるんですね。

(中略)

梅原 そういうところから理想国家のイメージが出来てきたんですね。その点プラトンと良く似ています。
白川 だから晩年になってからね「甚だしいかな、吾が衰へたること。久しいかな、我復た夢に周公を見ず」(「述而」)、晩年になって、もう夢に周公が出てこないと嘆いている。若い時には周初の文・武・周公というものを念頭に置いて、活動しておったろうと思います。
梅原 ですからやはりプラトンに近いと思います。プラトンは理想の国家を造ろうとした。彼が一番に批判しているのは僭主なんですよ。ですから生まれ変わっても間違っても僭主なんて選ぶもんじゃないと、プラトンは言っている。これはプラトンの思想だと思いますけどね。そういう風に道徳が崩壊し、人間がもっぱら権力と金を求める時代になって、理想的道徳国家を作ろうとした。それはアナクロニズムといえばアナクロニズムだ。
 それにしても陽虎のお話が興味深いですね。敵になる奴が案外近いというのが。 
白川 そう、一番近いものが一番の敵対者になるんです。
梅原 どっか違うんでしょうね。近いけれどどこか基本が違うんです。 
白川 理念の高さが違うんです。すぐに現実の中で行動する人と、まず理想型を描いて現実をそこまで上げる人とね、距離がある訳なんです。








司馬遷『史記』についての孔子の記述について。


白川 昔の書物は章ごとに分けてないんですよ、竹簡で書いてあったりしてね。『論語』の場合には、一尺二寸のを使って十二字入れるという風に、大体ものによって長さと字数の決まりがある。それが詰めて書いてある、ずっとね。そうするとね、どこで切れておるのか、これが一つの話であるのか二つの話であるのか、それは解らんのです。『史記』にはその間違いが多い。分けるべき所を一緒にして、その時のことにしてね、孔子がその時にこう言ったという言い方をする。
 しかしこれは司馬遷が悪かったのではなくて、その時代の資料が十分整理できていないということもあるんです。司馬遷は自分で考えてやるということはあんまりやってないんです。

(中略)

梅原 まあ百年や二、三百年前のことは調べれば残ってますからね。多少は聞き書きしたんだろうけど、孔子の時代となるともう遥かに遠いですからね。
白川 そうそう、もう『論語』そのものが怪しいもんですからね。どこまで本当に孔子の言葉であるのか、孔子の思想であるのかね。あれはいくつもの要素に分解できるから。かなり後のものもあります。

(中略)

梅原 「孔子世家」を読んでも血の出る人間を感じませんね。フィクションであったとしても、フィクションの面白味はないですね。私は旧制高校の時、特別に漢文の先生に「孔子世家」を読んでもらったことがありましたけれど、全く面白くなかった。『論語』はけっこう面白いのに、どういう訳だよと思いましたよ。
白川 大体あれはね、司馬遷も気の進まん文章であったんではないか。司馬遷は思想的に儒家じゃないんですよ。父の司馬談が道家のものすごい贔屓でね、司馬遷もお父さんのそういう話をしょっちゅう聞いている。だから儒家にはよそよそしいという感情を持っていた。
梅原 しかし孔子を含めて書かねばならなかった訳ですね。







殷から周への移行。この時代は一昔前「封神演義」が流行したのもあり、比較的メジャーではあると思う。神話ではあるが。


梅原 (周は元々は)遊牧民族ですかね?
白川 牧畜と農業だと思いますが、素性がよく解らない。それでね、そんなに大きな部族ではなかったんではないかと思うんですね。
梅原 どうしてそんな周が。
白川 陜西省に入ってね、殷の文化と接触して、殷の文字を彼らは受け継いでおる。

(中略)

白川 彼らは本来はもちろん文字がなかったに違いないけれども、殷の文化を相当貪欲に吸収するというような、そういう部族であったんではないかと思う。
 だから本当は、殷と敵対するほどの力はなかったんですが、(中略)紂王が大軍を連れてそこ(沿海)へ遠征に出かけた、周にその留守を突かれる。その留守を突かれてね、殷は滅んでしまう。殷王朝は滅んでもね、本当は力関係からいうと、まだ遥かに殷の方が強いんですね。

(中略)

白川 ただ周は、その天の意を受けて、「我々は、お酒ばっかり食らって乱れておる殷を滅ぼすんだ」と言うてね、殷を討った。殷がお酒を飲むというのはね、それは祭にお酒を使うんでね、毎日毎日、酒ばかり飲んでおった訳ではない(笑)
梅原 それも面白いですね、殷は毎日毎日、酒飲んで堕落して周に滅ぼされたと思っていたが、そうじゃない、祭に酒を使うのだから。飲むのは当たり前だ。
白川 そう、祭にお酒を使うんです。それをね、周はね、あんまりお酒を飲まなかったとみえる。だからこれを背徳とみなす。

(中略)

白川 だけどね、周が天下を取ってしまってもね、西周の初め半分ぐらいまで、中期ぐらいまでの青銅器は、殆ど殷の工作者が作って、殷の遺民が文章を書いている。そして殷の氏族が作った彝器(儀器)が半数以上ある。
 つまり殷が滅びてもね、彼らの文化はまだ滅びておらんのです。むしろその文化は、周の方はまだそれだけの文化を持っていない訳ですからね、だから天下を取って自分たちが号令するというような時でもね、「大邦殷」というような言葉を使わなければ収まらん訳ですね。武力では支配しとるけれども、文化的・政治的にはまだそこまで行けないという状態です。
梅原 中国はそういうことを続けてきたんじゃないですかね。例えば秦なんて国もですね、辺境にいたと思いますけどね。それから元がそうでしょ、それから清がそうでしょ、辺境の民族が中国を制しても結局みんな伝統的な文化の中に吸収されてしまう。武力を持ってても文化力というのを持たないから……
白川 同化されてしまう。
梅原 同化されてしまう、ええ。
白川 満州族なんかは清朝の終わりにはなくなってしまう。
梅原 蒙古族もそうですよね。結局は百年も経ってくると全くなくなってしまう。
白川 そういう風な国家の状態というものがね、殷周革命のそんな時代からある訳です。だから単一民族がどうしたというのではなくて、複数の民族がいつも動きながらね、歴史を形成してきているということです。






荘子や『楚辞』の話題からロマンチシズムとの対比で見る孔子。


梅原 中国のロマンチシズムの、あるいはミスティシズムの原型みたいなもんだな。
 ところが孔子の中にはそれは入って来ないんですよね。そういう巫祝の者の出でありながら、非合理な部分を切り捨てたような所がありますね。本来儒家は祭儀を司っておるんですから、『楚辞』なんかをもっと取り入れてもよいようですが……
白川 いや、孔子はね、特にそういう部分を取り上げてどうするということではなくて、孔子自身は必ずしも神秘主義者ではないけれども、またそういう者を絶対に排斥するというものでもないんです。
梅原 それでは「怪力乱神を語らず」というのはどういう風に解釈しますか。
白川 それは何というかね、孔子が病気であった時に子路が、彼は非常に忠実な弟子ですから、なんとか先生の病気を治そうと思ってね、いろんな者に頼んでお祈りさせたり、お札を並べたりして、色々やるんですよ。孔子はそういう巫祝から出た人ではあるけれども、必ずしもそういう形で色々祈祷するということは好まん人なんだね。
 それで子路にお前何をやっとるんだって、聞くんですよ。そうすると子路はね、これはちゃんと典拠があって、天地の神に祈るというような時に、こういうようなお祈りをするという例があるから、その礼にしたがってお祈りをしておるんです、というてね。すると孔子は大変不機嫌でね、あんまりよけいなことを言わんのやね、あの人は。「丘の祷ること久し」という。それだけ。字にしたらわずか五字です。「丘之祷久矣」、わしはいつもお祈りをしておるのじゃと。
 そういう、形式的に流れることは排斥をするけれども、例えば礼なら礼というてもね、「礼と云ひ礼と云ふも玉帛の云ひならんや」、玉帛を捧げてどうするというのが礼ではない、心の問題であると。心の内で祈る心を持っておれば、それでよろしいという、そういう風なことを言うておるからね。孔子自身は形式は排するけれども、その精神は重んずるという風な気持ちの人であった。
 だから伝統については、かなり寛容であったんではないかと思いますね。一般的な心情として素直に受け入れられるというようなものについては、寛容であったんではないかと思う。だからいわゆる合理主義者でね、そういうものは不合理だ、という風な調子で、片っ端から論理的に破壊して行くという風なたちの人ではなくて、それでいいならそれでもよろしい、というぐらいのね、寛容というか、一種の随順的な気持ちがあったんではないかと思う。
 ただ政治的な姿勢は別ですよ。これは非常に厳しかった。しかし人間的な在り方としてはね、素直に生きること、中庸というのがいちばんいいんだ、角を立てんのがいちばんいいんだということを言うとるからね。
編集部 「怪力乱神を語らず」があまりに肥大して……
梅原 そこからね、孔子が合理主義者と…… 
白川 それはそんなことを言わんというだけであってね。
梅原 和辻(哲郎)さんの『孔子』でもね、そこを非常に強調してるんですよね。そこに依って孔子は合理主義者になってるんですよ。ちょっと違うんですね、そこは。
白川 むしろね、非常に人間的ですよ。
梅原 先生の本で気付いたんですが、孔子という人を考える時に、弟子との問答ですね、非常に大事なのは。弟子一人一人の人間を見て、孔子は語っている。だから、その人間を理解しないと、とても孔子の言葉は理解できない、と。問答が大変なんですね。『論語』と言うのは本来そういうものですか。
白川 孔子は甚だしいことをなさず、とにかく並外れたということはやらんというね、いつでも非常に素直な人であったのではないかと思いますね。
梅原 一方で孔子は狂狷の徒だといわれてますが。
白川 そうそう、それはね、政治とか社会とかの、そういう風なものの矛盾面を見ておるから、悪の面を見ておるからね。こういうものを直すのには、やはり一種の革命者ですね、彼自身は。
梅原 狂狷ですね。
白川 だけど人間的には非常に優しい人であったと僕は思う。

(中略)

編集部 最初に梅原先生がおっしゃった、白川先生が「孔子」を書かれた時、立命館大学においては学園紛争が激しくて、そのいちばん激しい、紛争の真っ只中で先生は孔子を書かれました。なぜその時期に孔子だったのか、と言う質問に戻るんですけど……
白川 僕はね、段々いわゆる体制化が厳しくなって来ておったからな、孔子はそういう頃にどうしたかなと思ってね。弟子たちはどうしたかなと思ってな。
梅原 やっぱり先生が孔子を書いたことは大変な……
白川 あなたは居られんでよかった。
梅原 僕は狂狷で追われた(笑)。
白川 後は無残なものであった。僕は自分の生まれた所やからな、おん出る訳にはいかんのでね。
梅原 結局先生は勝ったですよ。今立命館は先生を神さまにしている。時代が変わればこれだけ変わるんですよ。狂狷の徒が中心になっちまう(笑)。孔子と同じです。





すべて「呪の思想」からの引用。

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金城孝祐

Author:金城孝祐
劇団無敵の作・演出家。油絵も描いてる。

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