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小学生に自生する組織化と目的化

木村君の主宰する小学生向けインプロワークショップ団体「salt-mane」(インプロの定型を模倣してるだけなので『サルマネ』をもじったという)に再び参加。

私は学部一年の頃に教職課程で児童教育法などを受けていたが、その座学のどれよりも学ぶ所が大い。

内容としては、最初にいくつかのインプロエクササイズをし、休憩を挟んだら子供たちが勝手に芝居をやりはじめ、それが一段落したら大学生(と俺)でインプロのショーを見せるのだが、この「子供が勝手に芝居を始める」のが非常に興味深い。


まずエクササイズの話から。
最初にウォームアップが必要なのは、演劇的感覚になじんでもらう必要があるからだ。
例えば、最も大きい例として、大人でも子供でも、異性の体に触れることに大きな抵抗を感じる(@鴻上尚史)。
その他、大声を出すのをためらう、大きな身振りをためらう、などなど。
特に小学生は、小学生なりの美学というか倫理をもっていて、それに強く支配されている。

しかし、劇的空間はそれらが解放されている前提で、表現としての体系が形づけられる。
なのでまず、日常の身振りから「劇的な身体」へ移らせる。

それはごく単純なエクササイズに求められ、例えば「ハイタッチ」というものでは、円陣を大きく組み、誰かが誰かの前まで走りより、アイコンタクトで合図し、同時にジャンプしてハイタッチする、ハイタッチされた人がまた誰かに走りより、の繰り返しを行う。
「走る」「アイコンタクト」「タッチ」の三つは、ウォームアップとして非常に重要な要素を持つ。すなわち、身体能力が開かれ、視線の暴露があり、他の個体と信頼を持ってフィジカルに触れ合うこと。
これが了解されている世界へと導くのであるが、その動力となるのは、集団心理学である。

この世界観に、ここにいる人間みなが了解しているという錯覚が、日常を取り払う。


私は、小学生の身体能力や精神的習熟程度、思考能力などを、自身が当時どうであったかを思い返す事によって想定可能であるが、どのような集団心理の背景に支配されていたかは、思い出すだけではわからない。

それは今児童を観察する事で、はじめて自覚できる。

児童は、条件が大人とはちがうだけで、基本的には同じ心理に動かされている。なので、一般の心理学によって語りうる部分が多い。
ただ一つ、明確に大人よりも顕著な部分がある。それは、組織化・目的化を希求しているところだ。
子供は、自身らの想像力を実現させたがっている。
それが、「勝手に芝居を始める」につながる。

どういう事か説明しよう。

これは教育に対する、ある種の反作用的な部分もあると思う。

近代において、学校や家庭など、子供を取り巻く環境は、その成熟のために、強い規制によって、長期的には自由を与えるという方法を取っている。
子供は想像力豊かで行動的だが、それに任せるだけでは進めない領域がある。
いやでも整列しなければいけない時があるし、嫌いな教科をやらなければいけない時もあるし、いたずらをしたら殴られることがある。
しかしそれに耐えて順応し、社会の成員として認められる「大人」となることで、子供にはなしえない思考・行動・技術・社会的自由を得る事ができるのだ。
コモンセンスは強い制約でありながら、大人としての自由の出発点になる。
その「大人」たちの作る社会こそ、議会が合意よって選ばれ、警察機構が機能し、インフラが整い、世論が明示され、法が敷かれることを可能にしている。

(近代的)社会とは、子供の否定に始まる。それは西欧に顕著で、子供とは「人間未満」の存在とされる。

しかしそれは大人の理論であり、子供にとっては「侵略行為」なのである。
そこにおいて大人は子供を壊滅的に侵すが、しかし子供は大人の理屈を理解しなければならず、またそうであるからこそ、そこにおいて認められたいと思う。
子供は、大人という「フィクション」をまさに吸収する課程でありながら、抑えきれない野性との葛藤の中に生きている。
だからこそ、「子供として、ありのままの想像力を十分に発揮してよいし、それは大人によって正当に評価される」という条件下において、絶大な自己実現を得る、と思われるのである。


そして、この子供が最も求めている事こそ、実現する場がなかなかないのである。
それは、しばしば大人には許容し難いものだからだ。
だが、このワークショップ団体はべつに「大人」なわけではない。そもそもこれは教育ではないし。
事実、子供らが主体的に動いている状況下では、私たちは主権を委ねていた。


子供が組織化・目的化を望むという話に戻す。
子供には子供の美学があると言ったが、その一つに、大人への帰属性が挙げられる。
言葉にすると当たり前だが、大人と子供は断絶しておらず、グラデーションのように繋がっている。
なので子供は、自身の社会的序列を、「子供ではあるが、ある程度大人へと教化されている」ことで確認する。
小学校の高学年は「低学年よりは大人」と確認し、低学年が「幼稚園よりは大人」と確認する。
そして「あくまでも子供である」ことを自覚しながら、「ある程度は大人と同じ水準でコミニュケイトできる」ことに自己を実現する。

以前触れていながら書かなかった事に、養老孟司が回顧する昔の子供の遊びがある。当時は大人たちは子供に構ってなどおらず、子供は近所の子供同士で遊んでいた。それは年齢に幅があり、そのなかで年少の子は年長の子の姿を見ながら学び、自身が年長になった時は年少の子らに大人として振る舞った。そのような序列の中で、子供は自発的に「大人」を見いだし、成長したという。

養老さんは、それが現代では破壊された、だから駄目だというが、どうだろう。
私は、今の小学生が普段どのような遊びをしているかは知らない。世間で言われているほどゲームに漬かっているのだろうか。
恐らく、そういう子もいるだろうし、弊害もあるところではあるかもしれない。
しかし、子供は経験に頼らずとも、「子供の中での序列化」は果たす。
私は見たのである。


休憩中に、子供は自然に、室内にある舞台に興味を示し、集まる。そして自然と組織化・役割分担が果たされる。

前回もそうだったが、今回にいたって、それがありありと見えた。
具体的に列挙すると、仕切り屋気質の男の子が自他ともにプロデューサーと認められ、しっかりした女の子が筋書きを指定し、年少の子に指示を出したり「この子を子役にしよう」と配役したり(まさに小さな大人!)、緞帳の操作や照明操作などの役割特化、それらが大人の指示無く、かつ個々の主体性のもとに行われる。

「個々の主体性のもとに」行われているように見えるのは、そこに集団心理があるからである。

無邪気さと渾然一体をなしながら、そこには「大人としての主張」がある。
子供だけでも、集団は組織化され、目的を果たすために動くという、「大人への反逆」とも言えるものがある。

だから、養老孟司はこの姿は見なくなったと嘆くが、機会が得られれば、子供はいつでも「反逆」しうるのである。

むしろ、その機会を奪ったことに罪があろう。
子供は本来、幼稚さを動機にしながらも「大人であること」を激しく希求する生き物なのだ。


もう一つ、具体例をあげる。
私ら講師陣も、子供に呼ばれて役者として出た。なるべく言われた通りの演技をし、最後にはオチをつける(これだけは子供には難しいし、彼らにカーテンコールをさせたいので)だけの役割だったが、子供によって、私らへの対応はやや異なる。

低学年の子は、ほとんど私らとは議論することはなく、この集団の中での「子供」と位置づけられている。
高学年の子は、私たちにも「このシーンで出て!」など指令をとばしたりして、仕切っている。私たちが「大人としての役割」を委ねているのに反応し、きちんと応える。
さらに、さっき挙げた仕切り屋の男の子は気がきいていた。私が舞台裏で「このシーンで、こう動けばいいのかな?」と確認を取ったら、彼は「そうです、それでよろしくお願いします」と敬語で言った。

ここにきて、「子供」は相対化される。
まさに、大人へのグラデーションを見た瞬間であった。

親がなくとも子は育つとはよく言ったものだ。


こうして遊びながら気付いた事に、私は彼らを、親や教師ほどには子供扱いしていないのだと思った。インプロショーをやったとき、私は児童の年齢に配慮せず、普段通りのことをやった。それでもきちんと彼らは笑うのである。しかも、表層的な部分のみならず、即興の技巧的なうまさにも反応してる。


小学校高学年とは、アウトプットだけ見るとまだ子供のような部分が多い。言動はしばしば幼く、また彼らは背が低く声変わりもしてない。しかし潜在的な判断力や精神活動においては大人に遜色ないのだと思った。彼らにはただ、知識や経験がないだけである。



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No title

興味深いですね。
インプロやろうず。

No title

参加してみる?

No title

あ やりたいかも。
よかったらメールして。

No title

おっけ 話通しとく。あちらも経験者を欲しがってる。

プロフィール

金城孝祐

Author:金城孝祐
劇団無敵の作・演出家。油絵も描いてる。

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